2023年1月31日火曜日

マタイ20.1-16

 僕らの世界では頑張った人、たくさん働いた人が多くの収入をもらいます。ところが、天の神様はどんな人にも、しかも多くの人に良いものを与えたいと願っておられます。そこには能力の差とか、仕事量の差はありません。そのことを、イエス様はぶどう園の主人のたとえで教えてくださいました。


(1-5節)

天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです彼は労働者たちと一日一デナリの約束をすると、彼らをぶどう園に送った。彼はまた、九時ごろ出て行き、別の人たちが市場で何もしないで立っているのを見た。そこで、その人たちに言った。「あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから。」彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと三時ごろにも出て行って同じようにした。


神様はぶどう園の経営者のようです。神様は経営に困ってないし、労働者不足で困っているのでもありません。ですが、多くの人に一緒に働いて欲しいと声をかけ、多くの人に賃金を与えたいと思っています。何度も市場で出かけ、声をかけ、「ぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うからと言います。神様はもう仕事終わり近くの5時になっても、まだ声をかけ、「ぶどう園に行きなさい」と言う主人のようです


(6-7節)

また、五時ごろ出て行き、別の人たちが立っているのを見つけた。そこで、彼らに言った。「なぜ一日中何しないでここに立っているのですか。」彼らは言った。「だれも雇ってくれないからです」主人は言った。「あなたがたもぶどう園に行きなさい。」


神様は5時からたった一時間しか働かなかった人にも同じように1日分の給料を与える主人のようです神様の恵みは人の行いとか時間による差がありません。


(8-9節)

夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。「労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。」そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつ受け取った。


ところがここで問題発生です。朝から働いた人が「もっと多くもらえるはず」「同じ賃金なのは不当だ」と文句を言います。


(10-14節)

最初の者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受け取ったのも一デナリずつであった。彼らはそれを受け取ると、主人に不満をもらした。「最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけですそれなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。」しかし、主人はその一人に答えた。「友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです


神様はちょっとしか働かなかった人にも同じように与えたい、愛したいと思ってくださいます。一日中声をかけ、なるべく多くの人に参加して欲しいし、喜んで欲しいと願っているかのようです文句をいう人にも主人は「友よ」と声をかけます。神様は人々をしもべでもなく「友」だと思っています。神様と僕らの関係は労使関係ではなく、友だち関係ですこの主人が多くの人に声をかけたのは、苦しめようとしたのではなく、多くの人を「友」と呼んで良いものを分かち合うためでした。


文句を言う人にとっては労働は友情でも愛でもありません。自分の時間を与えてやった、自分の力を提供してやった、自分のおかげだと言う思いです

教会で「天の国は行いにはよらず、ただ神様の恵みの世界ですって習います。僕もそう言います。…ですが、知らない間に「私が頑張った、あの人は何もしてない」と比べたり、見下げたり、妬んだり、差別したりして文句が出ます。牧師が一番そうなりがちです熱心な人ほどその傾向が強いようです。天の神様はどんな人にも、しかも多くの人に良いものを与えたいと願っておられます。


そもそも、僕らは滅ぼされて当然だった罪人、捨てられて当然だった壊れた器です。だのに、神様は声をかけ、行いに関係なく良いものをくださいます。天の国はそのように恵みと愛だけがある世界です


今日も感謝しましょう。神様の愛と恵みに仕事の量は関係ありません。神様は今日も多くの人に声をかけ、良いものを与えようとしてくださっています。ハレルヤ!

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