僕らの世界では頑張った人、たくさん働いた人が多くの収入をもらいます。ところが、天の神様はどんな人にも、しかも多くの人に良いものを与えたいと願っておられます。そこには能力の差とか、仕事量の差はありません。そのことを、イエス様はぶどう園の主人のたとえで教えてくださいました。
(1-5節)
天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。彼は労働者たちと一日一デナリの約束をすると、彼らをぶどう園に送った。彼はまた、九時ごろ出て行き、別の人たちが市場で何もしないで立っているのを見た。そこで、その人たちに言った。「あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから。」彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと三時ごろにも出て行って同じようにした。
神様はぶどう園の経営者のようです。神様は経営に困ってないし、労働者不足で困っているのでもありません。ですが、多くの人に一緒に働いて欲しいと声をかけ、多くの人に賃金を与えたいと思っています。何度も市場で出かけ、声をかけ、「ぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから」と言います。神様はもう仕事終わり近くの5時になっても、まだ声をかけ、「ぶどう園に行きなさい」と言う主人のようです。
(6-7節)
また、五時ごろ出て行き、別の人たちが立っているのを見つけた。そこで、彼らに言った。「なぜ一日中何もしないでここに立っているのですか。」彼らは言った。「だれも雇ってくれないからです。」主人は言った。「あなたがたもぶどう園に行きなさい。」
神様は5時からたった一時間しか働かなかった人にも同じように1日分の給料を与える主人のようです。神様の恵みは人の行いとか時間による差がありません。
(8-9節)
夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。「労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。」そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつ受け取った。
ところがここで問題発生です。朝から働いた人が「もっと多くもらえるはず」「同じ賃金なのは不当だ」と文句を言います。
(10-14節)
最初の者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受け取ったのも一デナリずつであった。彼らはそれを受け取ると、主人に不満をもらした。「最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。」しかし、主人はその一人に答えた。「友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。
神様はちょっとしか働かなかった人にも同じように与えたい、愛したいと思ってくださいます。一日中声をかけ、なるべく多くの人に参加して欲しいし、喜んで欲しいと願っているかのようです。文句をいう人にも主人は「友よ」と声をかけます。神様は人々をしもべでもなく「友」だと思っています。神様と僕らの関係は労使関係ではなく、友だち関係です。この主人が多くの人に声をかけたのは、苦しめようとしたのではなく、多くの人を「友」と呼んで良いものを分かち合うためでした。
文句を言う人にとっては労働は友情でも愛でもありません。自分の時間を与えてやった、自分の力を提供してやった、自分のおかげだと言う思いです。
教会で「天の国は行いにはよらず、ただ神様の恵みの世界です」って習います。僕もそう言います。…ですが、知らない間に「私が頑張った、あの人は何もしてない」と比べたり、見下げたり、妬んだり、差別したりして文句が出ます。牧師が一番そうなりがちです。熱心な人ほどその傾向が強いようです。天の神様はどんな人にも、しかも多くの人に良いものを与えたいと願っておられます。
そもそも、僕らは滅ぼされて当然だった罪人、捨てられて当然だった壊れた器です。だのに、神様は声をかけ、行いに関係なく良いものをくださいます。天の国はそのように恵みと愛だけがある世界です。
今日も感謝しましょう。神様の愛と恵みに仕事の量は関係ありません。神様は今日も多くの人に声をかけ、良いものを与えようとしてくださっています。ハレルヤ!
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