最近は「偉くなりたい」「人の上に立ちたい」と思う人が少ないそうです。が、それでも家の中でも職場でも友達の中でも周りの人たち思い通りになって欲しい、自分が上、周りは下という気持ちはあります。誰にでも「自分が偉い」という気持ちはあるようです。
イエス様の時代、イスラエルはローマ帝国に支配されていました。それで人々はイエス様こそローマ帝国を倒してイスラエルを独立させて王様になると誤解したようです。間もなく新政権ができる、と思った2人の弟子の母は、イエス様に「うちの子たちを大臣にしてください」とお願いしました。
(20-21節)
そのとき、ゼベダイの子たちの母が、子どもたちといっしょにイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。
イエスが彼女に、「どんな願いですか。」と言われると、彼女は言った。「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」
それを聞いた他の10人の弟子は怒ります。「このことを聞いたほかの十人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた。」(24節)みんな偉くなりたい、大臣になりたい、と思っていました。そんな彼らにイエス様は言われます。
(25-27節)
そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。
「みなに仕える者」とは「執事」とも翻訳できる言葉です。「しもべ」は奴隷と同じ言葉です。教会の「執事会」は「しもべ会」「仕える者たちの会」という意味です。模範はイエス様です。
この世の議員さんなら問題があると「秘書がやった」「私は悪くない」と言います。でも、イエス様は正反対です。
罪のない方なのに全ての罪の責任を引き受け、神に捨てられ、裁かれる「しもべ」になってくださいました。
イエス様が弟子たちに「しもべ」「仕える者」になりなさい、とおっしゃるのはイエス様がそのような方だからです。
(28節)
人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」
僕の師匠である阿部牧師は僕が牧師になった時に言いました。
「牧師だからと言ってちやほやされたり、牧師さんのおかげ、なんて言われていたらちょっと違うと思うよ。罵られたり、嘲られる側になるなら良い牧会だと思う。イエス様がそういう方だし、イエス様に従うことはそれに倣うことだからね。」
黒人差別と戦ったキング牧師は暗殺される前日の礼拝メッセージで言いました。まるで明日暗殺されることを知っていたかのようです。
「私の葬儀は長い葬儀を望みません。葬儀で長いスピーチも求めません。私がみなさんに語って欲しいことは、私がノーベル平和賞を受けたことや、300や400も賞を受けたなどとは話して欲しくありません。そんなことは重要ではないのです。私の学歴も語って欲しいと思いません。その日、私はその生涯を他の人々のために捧げようと努めたと語って欲しいのです。」
僕らが人に仕えることは、キリストのみ業をその器官が現すことです。家で職場で学校で病院でみんな偉くなろうとします。その中で人に仕え人を愛することはキリストご自身の表れです。僕らの中からは出てきませんが、キリストの御霊が僕らの中におられます。人に仕えることは証そのもの、伝道そのものです。
(ヨハネ 13:35)
もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」
僕らの人生が神様と人に仕え与えるものでありますように。
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