神様は僕らに教えよう、助けよう、恵もうとしてくださっています。求める人には必ず神様の答えがあることが聖書に書かれています。
(21節)
あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを、あなたの耳は聞く。
神様が愛と恵みの指示を与えたいと願っておられるのに、神様以外の知恵や力をお金を払って求めようとするのは愚かでなことです。そんなイスラエル人たちの姿が書かれています。
(2節)
彼らはエジプトに下って行こうとするが、わたしの指示を仰がない。ファラオの保護のもとに身を避け、エジプトの陰に隠れようとする。
(6-7節)
「苦難と苦悩の地を通り、雌獅子や雄獅子、まむしや、飛び回る燃える蛇のいるところを通り、彼らはその財宝をろばの背に載せ、宝物をらくだのこぶに載せて、役にも立たない民のところに運ぶ。エジプトの助けは空しく、当てにならない。
神様は僕らを守り祝福しようとしておられます。だのに神様を嫌がり、「神様は消えて欲しい」「心地よいことだけを語れ」と思う傲慢な姿が聖書に書かれています。
(10-11節)
彼らは予見者に『見るな』と言い、先見者にはこう言う。『われわれについて正しいことを幻で見るな。われわれに心地よいことを語り、だましごとを預言せよ。道から外れ、道筋からそれ、われわれの前からイスラエルの聖なる方を消せ。』」
このように神様をバカにし続けることは、気がつかないうちに壁に亀裂が広がってある日一気に崩壊するようだと聖書は言います。自覚症状がない病気のようです。急に倒れてしまいます。
(13-14節)
それゆえ、このあなたがたの不義は、そそり立つ城壁に広がって今にもそれを倒す裂け目のようになる。その倒壊は瞬く間に来る。
その倒壊は、陶器師の壺が容赦なく打ち砕かれるときのよう。その破片の中には、炉から火を取り、水溜めから水を汲むかけらさえ見つからない。」
神様は僕らに平安を与えようとしておられます。神様のことばはホッとすることばです。神様のことばは単なる文字ではなく霊的なものだからです。逆に、神様の言葉を求めない人はいつも不安でいつも何かを求めて走り回っています。走り回らないで、神様に立ち返って静かにすることこそが救いだと聖書は言います。
(15節)
イスラエルの聖なる方、神である主はこう言われた。「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。」
神様は助けてくれるかどうかわからない…と言う不確実な方ではなく「必ず」助けてくださり、良いものを与えてくださる神様です。
(18-19節)
それゆえ主は、あなたがたに恵みを与えようとして待ち、それゆえ、あわれみを与えようと立ち上がられる。主が義の神であるからだ。幸いなことよ、主を待ち望むすべての者は。
ああ、シオンの民、エルサレムに住む者。もうあなたは泣くことはない。あなたの叫ぶ声に応え、主は必ず恵みを与え、それを聞くとき、あなたに答えてくださる。
神様が答えてくださるのは「100パーセント」です。「必ず」恵みを与えてくださると書かれています。(19節)もちろんすぐに答えてくださる時もあるし、時間をかけて教えてくださるときもあります。神様が無視することはありません。恵みは必ず与えられます。だのに、どうして求めないのか、と聖書は言います。
(21節)
あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを、あなたの耳は聞く。
僕らは神様に具体的に求めることができます。右ですか、左ですか、と聞くように、具体的に求める時に神様は必ず答えてくださいます。神様の導きは聖書によって与えられます。しかも「惜しげなく、とがめることなく」与えてくださいます。その時には聖霊による平安と喜びがあります。
(ヤコブ1:5-6)
あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。
僕らが祈らないのは大損です。僕らが聖書に聞かないのも大損です。
主に求める人には良いことしかありません。今日もまず、主に求めましょう。ハレルヤ!
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