ルカ22.1-6
牧師とか宣教師のスキャンダルが突然バレて周囲を驚かせ、教会を傷つけることがあります。それはいきなり大きな罪をしたのでなく、「まあいいか」「これぐらいはいいっしょ」という小さな不誠実さや傲慢さや肉欲を日常的に「OK」としてきた結果です。
同じように「十二人の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンが入った。」とあります。(3)ある日いきなりサタンが入ったのではなくて、彼がいつも小さなごまかしを続けていたことが始まりです。「金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいた」(ヨハネ12.6)とあります。小さな罪は、まるでパン種がパン全体を膨らますかのよう、まるで小さなガンが体中に転移していくかのようです。彼はお金への執着がやめられなくなっていました。そのようにして、ユダはサタンを受け入れ、支配され、お金のためにイエス様を裏切り売り渡しました。
"ところで、十二人の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンが入った。
ユダは行って、祭司長たちや宮の守衛長たちと、どのようにしてイエスを彼らに引き渡すか相談した。
彼らは喜んで、ユダに金を与える約束をした。
ユダは承知し、群衆がいないときにイエスを彼らに引き渡そうと機会を狙っていた。"
ルカの福音書 22章3~6節
"「私に何をくれますか。この私が、彼をあなたがたに引き渡しましょう。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。"
マタイの福音書 26章15節
サタンはちょっとのズルや悪いことが好きなようです。なぜなら少しだけヒビが入ればそれを広げて建物全体が崩せるからです。ユダは悪魔に乗っ取られるまでその重大さに気づかなかったようです。気がついた時には彼は絶望して自殺しています。(マタイ27.5)
クリスチャンには聖霊が住んでいるので、まるでアラームが鳴るように、ちょっとの罪でも聖霊によって気がつきます。(ヨハネ16.8)実際には罪があると気持ち悪くて「ん?」と思い、モヤっとします。僕らはキリストの体の1部とされているから、基本的に悪魔に乗っ取られることはありませんが、それでもでも悪魔はそれでもチャンスを伺っては挑戦し、悪に引きずり込もうとしています。「あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」(1ペテロ5.8)
僕らの中からは高ぶりや不誠実や赦さない心が出てきますが、問題はそれが放置されることです。放置は最も危険です。
(箴言4.23-24)
何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。
曲がったことを言う口をあなたから取り除き、ゆがんだことを言う唇をあなたから遠ざけよ。
倒れた人は悔い改めないまま、気がつかないまま過ごしてしまった人です。だから、モヤっとしたら神様に聞き、調べてもらい、教えてもらって正直に気持ちを祈り、罪をちゃんと告白して止めるのが大事です。また、信頼できる仲間にオープンに自分の弱さとか悩みを話すのも大事です。一人で全部抱えると、サタンの攻撃対象になりやすいようです。忙しくなって、あれもしなきゃ、これもやらなきゃ、となると神様の前で正直になる時間がなくなりがちです。他の人からのアドバイスを受けつけなることも危険です。何よりディボーションは大事です。「必要なことは一つだけです。」と言われるほどです。(ルカ10.42)
失敗した人を見下して「自分は大丈夫」と思うならすでに高ぶりの芽が出ています。同じキリストの体の一部として一緒に神様に告白して謝りましょう。「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」(1コリント10.12)どんなに失敗しても、イエス様の赦しはあります。イエス様の十字架の血は人を完全に赦しきよめてくださいます。今日も認めましょう。小さな罪は今日も僕らの中に出てしまっています。
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