「本音」と「建前」「表」と「裏」があるとすれば、神様が大切に思っているのは「本音」「裏」です。裏面こそ大事です。神様はそこを見ておられます。この当時のイスラエル人たちは建前では神様を信じ礼拝していましたが、それは口先だけで本音はお金、そして裏ではエジプトの助けを求めていました。彼らの賛美や礼拝は「形式」を人から教えられただけで、実際は心から神様に求めることはなかったようです。
(13-15節)
主は言われた。「それは、この民が口先でわたしに近づき、唇でわたしを敬いながら、その心がわたしから遠く離れているからだ。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことである。(…中略…)わざわいだ。主に自分のはかりごとを深く隠す者たち。彼らは闇の中で事を行い、そして言う。「だれが私たちを見ているだろう。だれが私たちを知っているだろう」と。
今でいうなら、匿名でのネットの書き込みこそ僕らの本性です。神様は全てを見て知っています。そして僕らにその責任を問われます。
(ヘブル 4:13)
造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。
人は「誰も見ていない」と思うときに罪を犯し、本性を現します。(15節)聖書は自分の裏面にある醜さ、弱さを隠さずに認め、神様に告白する人を「幸いだ」とおっしゃいます。(マタイ5.3-5)逆に、表面だけ神様を敬っていても、イエス様は「むだなことである」とおっしゃいました。(マルコ7.7)
神様はいつも人間の選択を尊重されます。神様を求めず、建前だけの礼拝で、本音は人間の知恵だけを求める人には、神様もお望み通りに神様のことをわからなくされます。心は眠ってしまい、心の目は閉じられ、神様との霊的な交わりを失います。
(9-12節)
驚き、たじろげ。目を閉ざされて、盲目となれ。彼らは酔うが、ぶどう酒のせいではない。ふらつくが、強い酒のせいではない。主はあなたがたの上に深い眠りの霊を注ぎ、預言者というあなたがたの目を閉ざし、先見者というあなたがたの頭をおおわれた。
神様は僕らが選んだ通りにしてくださいます。神様を求めず、人の知恵だけを求めるなら本当に神様のみ言葉が分からなくなります。文字は読めても神様からの命を失い、聖書の言葉がわからなくなります。これは自分で願った通りです。
(11-12節)
そのため、あなたがたにとっては、すべての幻が、封じられた書物のことばのようになった。読み書きのできる人に渡して、「どうか、これを読んでください」と言っても、「それは封じられているから読めない」と言い、また、読み書きのできない人にその書物を渡して、「どうか、これを読んでください」と言っても、「私は読み書きができない」と答えるであろう。
当時、読み書きができる人はエリートでした。でも、自分は知恵や学歴があるから大丈夫、と思う人には神様はお望み通りに神様のことを分からなくされました。反対に、自分の醜さ弱さを隠さずに認め、神様を求める人は幸いです。教育がなくても、イスラエル人じゃなくても神様のことがわかるようになります。神様に愛される人として祝福されていきます。
(17-19節)
もうしばらくすれば、確かに、レバノン(イスラエルではない外国人)は果樹園に変わり、果樹園は森に見えるようになる。
その日、耳の聞こえない人が、書物のことばを聞き、目の見えない人の目が、暗黒と闇から物を見る。柔和な者は主によってますます喜び、貧しい者はイスラエルの聖なる方によって楽しむ。
裏面こそ大事です。裏面にある醜さ、弱さを隠さずに認めましょう。正直に神様に告白して、神様を求めましょう。その人は「主によってますます喜び、貧しい者はイスラエルの聖なる方によって楽しむ。」とあります。この世の知恵や知識がなくても、お金や地位がなくても大丈夫です。神様を心から求めることこそ、何よりも価値があります。神様は喜びと知恵を惜しみなく与えてくださいます。(ヤコブ1.5)
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