「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」などは「滅び去ります。」と聖書は僕らに伝えています。(1ヨハネ2.16-17)どんなに立派な立場や賞や富を手に入れても、神様の前では「しぼんでいく花」だと聖書は言います。
(1節)
わざわいだ。エフライムの酔いどれが誇りとする冠、その麗しい飾りの、しぼんでゆく花。これは、酔いつぶれた者たちの、肥えた谷の頂にある。
エフライムとは、北イスラエルのことです。(聖書のこの時代は南北に分裂していました。)
彼らの首都は丘の上に立派な城壁で囲まれていて、絶対安全だと誇っていたようです。その城壁には塔もいくつかあって、遠くから見るとまるで冠のように見えたようです。町の守りは完璧に見えました。しかも隣の国との関係も良かったです。しかし、それは「しぼんでゆく花」でした。神様はまやかしの安全神話を滅ぼすと書かれています。
(2-3節)
見よ、主のもとには激しく力強いものがある。それは、突き刺さり荒れ狂う雹の嵐のようだ。激しい勢いで押し流す豪雨のようだ。主は御手をもってこれを地に下される。エフライムの酔いどれが誇りとする冠は、足の下に踏みにじられる。
預言者イザヤは神様に戻りなさい、というメッセージを人々に伝えました。ですが、人々は酒に酔っていて聞く耳を持ちません。祭司さえも酔っ払っていて神様に向き合おうとしません。聖書は神様の働きをする人は酒飲みでないようにと教えていますが、当時の祭司も預言者も酔っ払って形ばかりの神様への奉仕をしていたようです。今でいうなら牧師が酔っ払って説教をしているような感じです。
(7-8節)
しかし、これらの者も、ぶどう酒でよろめき、強い酒でふらつく。祭司も預言者も強い酒でよろめき、ぶどう酒で混乱し、強い酒でふらつく。幻を見ながらよろめき、さばきを下すとき、よろける。どの食卓も吐いた物であふれ、余すところもない。
イザヤの預言を聞く人々はイザヤを馬鹿にします。イザヤの話はまるで幼稚だ、と言わんばかりです。バカにして真似します。
(9-10節)
「彼は知識をだれに教えようとするのか。知らされたことをだれに悟らせようとするのか。乳離れした子にか。乳房から離された子にか。彼は言っている。『ツァウにツァウ、ツァウにツァウ、カウにカウ、カウにカウ、あっちにゼエル、こっちにゼエル』と。」
この世の知恵と力を重視する人にとっては、神様からのメッセージはくだらない、アテにならない、と思うようです。
イスラエル人たちは自分たちの力を誇り、軍事力を誇り、酒を飲んで神様をバカにしていました。
どんなことがあっても、自分たちは絶対大丈夫、と豪語しています。でも、彼らは神様に倒されてしまいます。
(13-15節)
これは、彼らが歩くときうしろに倒れて砕かれ、罠にかかって捕らえられるためである。
それゆえ、嘲る者たちよ、主のことばを聞け。エルサレムでこの民を治める者たちよ。
あなたがたがこう言ったからだ。「われわれは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる。(エジプトと同盟を結んでいるので救われる、と思ってるようです。)たとえ、洪水が押し寄せても、それはわれわれには届かない。われわれは、まやかしを避け所とし、偽りに身を隠してきたのだから。」
神様はそれを「まやかしの避けどころ」と言います。この世の繁栄、安全というごまかしが踏みにじられる日がきます。神様はそれら人間が作り上げたものを一掃されます。
僕らの人生にもこの世にも終わりが来ます。その時に完全に守ってくださる信頼できる避けどころはイエス様です。
イザヤはイエス様のことを預言しています。
(16節)
それゆえ、神である主はこう言われる。「見よ、わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊い要石。これに信頼する者は慌てふためくことがない。
この尊い石とはイエス様であり、このイエス様に信頼する人はどんなことがあっても恐れることも慌てることもない、という意味です。新約聖書は何度もこの箇所を説明しています。(ローマ9.33、10.11、1ペテロ2.6)
テストされて絶対に壊れることのない大事な礎石のように、イエス様は人間にとって一番大事な土台となってくださり、僕らの全ての罪を背負って引き受けてくださいました。いざとなったら役に立たないのでなく、絶対に壊れない礎石のように僕らを支えてくださるのはイエス様による赦しであり、イエス様による守りであり、イエス様による永遠の命です。
個人的にも終わりが来ます。世界的にも終わりが来ます。そのときに慌てふためかない人は、イエス様を信頼する人です。
イエス様だけが救いです。この方は信頼できます。裏切ることも、壊れることも、なくなることもない救いです。今日も大丈夫です。ハレルヤ!
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