2023年1月12日木曜日

ルカ4.16-30

 僕らは「神様はこうだ、ああだ」と決めつけがちです。で、もし自分の思った通りの神様じゃないと、急に疑ったり嫌ったりします。ナザレの人たちはイエス様に対しても同じようでした。イエス様はガリラヤ一帯で有名になっていました。「その評判が周辺一帯に広まった。」とあります。(14)その本人が故郷ナザレに帰って来ました。人々はだいぶ期待したようです


人々の期待は「キリスト」が現れるんじゃないか、というものでした。「キリスト」とは「油注がれた者」という意味です。旧約聖書のイザヤ書には「油注がれた者(キリスト)」が現れると書かれています。そしてイエス様は自分が「油注がれた者(キリスト)」だと宣言するかのように、イザヤ書を朗読されました。


(16-19)

それからイエスはご自分が育ったナザレに行き、いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。

すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その巻物を開いて、こう書いてある箇所に目を留められた。

「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。


人々は一斉にイエス様に注目します。そして、イエス様は自分が神様に油注がれて遣わされたキリストであることを宣言されました。


(20-21)

イエスは巻物を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいた皆の目はイエスに注がれていた。

イエスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」

人々はみなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いて、「この人はヨセフの子ではないか」と言った。


人々はイエス様をほめましたが、彼らには疑問もありました。イエス様のことを子どもの時から知っているからですリビングバイブル は「いったいどうなってんだ。 ただのヨセフのせがれじゃないか」と訳します。急に人々はイエス様に対して怒り、嫌い、「死ね」というような態度に変わっていきます。他の町では預言の通りに病気を治したり悪霊を追い出したりしてるのに、この村ではしてくれないからです奇跡を見せてくれたらキリストだと信じるけど、そうでないなら急に怒り出し殺そうとします。


(23-24)

そこでイエスは彼らに言われた。「きっとあなたがたは、『医者よ、自分を治せ』ということわざを引いて、『カペナウムで行われたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ』と言うでしょう。」

そしてこう言われた。「まことに、あなたがたに言います。預言者はだれも、自分の郷里では歓迎されません。


神様は信じない人たちの前では奇跡をしない、というのは何度も実例があります。預言者エリヤの時代もエリシャの時代も人々が神様を信じなかった時代です神様を信頼しない人たちには神様はイスラエル人であっても助けず、逆に神様を信じた外人(イスラエル人が見下していた外人)に癒しや救いを与えてくださいました。イエス様はその実例を出します。まるでここナザレの人たちが自分を信じないから、ナザレの人たちは癒されず、救いもない、と言っているかのようです


(25-27節)

まことに、あなたがたに言います。エリヤの時代に、イスラエルに多くのやもめがいました。三年六か月の間、天が閉じられ、大飢饉が全地に起こったとき、そのやもめたちのだれのところにもエリヤは遣わされず、シドンのツァレファテにいた、一人のやもめの女にだけ遣わされました。また、預言者エリシャのときには、イスラエルにはツァラアトに冒された人が多くいましたが、その中のだれもきよめられることはなく、シリア人ナアマンだけがきよめられました。」


人々は怒り、追い出し、殺そうとしました。自分の思った通りのキリストじゃないなら、いらない、出ていけ、という態度です


(28-30)

これを聞くと、会堂にいた人たちはみな憤りに満たされ、立ち上がってイエスを町の外に追い出した。そして町が建っていた丘の崖の縁まで連れて行き、そこから突き落とそうとした。しかし、イエスは彼らのただ中を通り抜けて、去って行かれた。


イエス様が来てくださったのは「貧しい人に良い知らせを伝えるため」ですキリストを自分の思い通りにさせよう、という人ではなく、自分には何もない貧しい人たちの救いのためにイエス様が来てくださいました。自分の願いを叶えてくれる神様じゃないならいらない、という風に、神様を自分以下のように利用したがり、願いが叶えられないなら急に嫌ったり疑ったりする傲慢さを僕らは持っています。イエス様は最初から嫌われ、捨てられ、殺される側に来てくださいました。最初から傷つけられ、捨てられる側になってくださいました。僕らの傲慢さを受ける側になってくださいました。


感謝しましょう。僕らは何年経っても傲慢さが抜けきらないですその罪を高ぶりをまともに引き受けてくださる救い主ですイエス様の憐れみゆえに僕らは赦され、解放されています。ハレルヤ!

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