僕らは「きっとこうだ」と決めつけているとそのように行動するようです。バビロンに任命された総督ゲダルヤ暗殺事件があって、残った人たちはバビロンに報復されるのではないか、と恐れました。それで預言者エレミヤに祈ってほしいと願います。また、神様からのみことばにどんなことがあっても従います、とその時は言います。でも実際心の中では「きっと悪いことが起こる」とばかりを考えていたようです。
(5-6)
私たちは必ず、あなたの神、主が私たちのためにあなたを遣わして告げられることばのとおりに、すべて行います。それが良くても悪くても、私たちは、あなたを遣わされた私たちの神、主の御声に聞き従います。私たちの神、主の御声に聞き従って幸せを得るためです。」
10日後に神様からのことばが与えられました。神様は「この場所に留まりなさい」(10)「バビロンの王を恐れるな。あなた方と共にいて、あなたがたを救う。」(11)「あなたがたを憐れむ」(12)など素晴らしい約束ばかりです。神様は「もしエジプトに逃げるなら戦争や飢饉や疫病の災いが下る」(15-17)といい、「エジプトには下るな」とおっしゃいました。(19)彼らは自分の考えと違うみことばを聞いた途端に態度が豹変します。「エレミヤはウソを言っている」と言い、自分の計画や計算を優先します。
(43章2-3節)
「あなたは偽りを語っている。私たちの神、主は『エジプトに行ってそこに寄留してはならない』と言わせるために、あなたを遣わされたのではない。ネリヤの子バルクが、あなたをそそのかして私たちに逆らわせ、私たちをカルデア人の手に渡して、私たちを死なせるか、あるいは、私たちをバビロンへ引いて行かせようとしているのだ。」カレアハの子ヨハナンと、軍のすべての高官たちと、民のすべては、「ユダの地にとどまれ」という主の御声に聞き従わなかった。
10日間の間に彼らは「エジプトに逃げる」と決めていたようです。彼らはバビロンを恐れ、不安材料だけに注目し、それから逃れる方法を考え続け、エジプトに逃げることを決めていました。そこには神様への信仰もみことばへの信頼もありません。表面では「主に従います」と言うけども、実際は自分の考えが全てです。神様より自分です。聖書は彼らのことを「高ぶった人たち」と言います。(43.2)彼らは自分の計画や計算に縛られ、違うことを言うエレミヤを否定します。
僕らが信仰から離れて自分の考えに縛られるのは、みことばよりも自分の考えや心配事をぐるぐると考え続けて雪だるまのように大きくして行くからです。結局、肥大化した自分のプランや想像を信頼します。彼らは『いや、エジプトの地に行こう。あそこでは戦いにあわず、角笛の音も聞かず、パンに飢えることもない。あそこに私たちは住もう』(14)と考えていたようです。
思考は現実化します。僕らは自分の思い込みを繰り返して自分に言い聞かせるのが得意なようです。繰り返すべきは神様のみことばです。不安なことや重荷は神様に吐き出して委ね明け渡しましょう。そして、神様のことばを繰り返しましょう。僕らは反対のことばかりしがちです。不安や重荷ばかり繰り返し考え、決めつけて行動します。まるで自分の考えを尊重しディボーションしているかのようです。
(詩篇 1:2-3)
まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。
時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
みことばを反芻しましょう。みことばを思い巡らしましょう。不安や重荷は神様に吐き出し、明け渡しましょう。昼も夜も口ずさむのは自分の考えでなく、神様のみことばです。主はユダの人たちに「あなた方と共にいて、あなたがたを救う。」(11)「あなたがたを憐れむ」(12)など素晴らしい約束ばかりを与えてくださいました。僕らにも同じように言ってくださっています。僕らを祝福へと導くのは、神様のみことばです。ハレルヤ!
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