バビロンはチグリス、ユーフラテス川流域で豊かな国でした。その豊かさを与えてくださったのも神様です。だのに彼らは自分の手でそれを作ったかのように高ぶり、偶像を作り、エルサレムを破壊します。バビロンは一定期間イスラエルへの懲らしめをする国として神様に用いられたのも事実です。ですが、神様からの裁きを受けます。これは神様の復讐でした。
(11-13)
矢を研ぎ、小盾を取れ。主はメディア人の王たちの霊を奮い立たせられる。御思いは、バビロンを滅ぼすこと。それは主の復讐、ご自分の神殿の復讐だからである。バビロンの城壁に向かって旗を掲げよ。見張りを強くし、番兵を立て、伏兵を備えよ。主は計画を練って、バビロンの住民について語ったことを実行されるからだ。大水のほとりに住む、財宝に富む者よ。おまえの最期、おまえの寿命が尽きる時が来た。
バビロンは神様の怒りの前に消え去ります。イスラエルもまた高ぶり、偶像を作り神様に反抗したのに、イスラエルは見捨てられせんでした。両者の違いがはっきりと書かれています。
(4-5)
刺し殺された者たちが、カルデア人の地に、突き刺された者たちが、その通りに倒れる。
しかし、イスラエルもユダも、その神、万軍の主に見捨てられることはない。彼らはイスラエルの聖なる方から離れ、彼らの地は罪過で満ちていたが。
バビロンは滅ぼされたのに、イスラエルは70年の懲らしめの後救われます。「彼らの地は罪過で満ちていた」のに関わらず、です。彼らはエルサレムに帰り、回復します。
(9-10)
私たちはバビロンを癒やそうとした。だが、それは癒やされなかった。私たちはこれを見捨てて、それぞれ自分の土地へ帰ろう。バビロンへのさばきが、天に達し、大空まで上ったからだ。
主は私たちの義を明らかにされた。さあ、私たちはシオンで、私たちの神、主のみわざを語ろう。
バビロンは滅ぼされ、イスラエルは回復するので「不公平じゃないか!」と思う人も多いようです。両方とも同じように壊れた器のようです。神様に捨てられてもおかしくありません。だのにイスラエルが捨てられなかったのは神様の憐れみです。「事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神による」と聖書は言います。(ローマ9.16)両者とも滅ぼされてもおかしくありません。だのに、「その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださった」のです。(ローマ9.22)
この時、イスラエルと異邦人(バビロン)の区別がはっきりとありました。でも、今は「神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。」(ローマ9.24)今はイスラエル人は良くて異邦人はダメ、ということはありません。両者とも同じく神様のあわれみに招かれています。イエス様の十字架の処刑によって神の怒りは過ぎ越されます。イエス様を信じ、呼び求める人はイスラエル人であっても異邦人であっても救われます。
(ローマ10:12)
ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。
僕らはイエス様を信じて赦され、救われました。神様の怒りと裁きに会うことはありません。愛する子どもとして懲らしめられることはありますが、それは僕らが回復し成長するための愛であって裁きではありません。「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。」(ヘブル12.10)
神様は正しく復讐する方です。でも、イエス様を信じた人は裁かれることなく救われます。今も神様からの愛の懲らしめはあります。が、裁きではありません。ただ感謝しましょう。「イスラエルもユダも、その神、万軍の主に見捨てられることはない。」(5)僕らはこの選びと同じ赦しと契約に入れていただきました。感謝しかありません。僕らの誇りはありません。ただイエス様の恵み100パーセントです。ハレルヤ!
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