キリストを信じた僕ら教会はキリストの花嫁だと聖書は言います。ちなみに教会とは建物のことではなく、信じる人たちの群れのことです。
(エペソ 5:31-32)
「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」(…中略…)私は、キリストと教会とをさして言っているのです。
僕ら教会はキリストに愛される花嫁です。また、僕らもキリストを愛します。今はまだ完全に一つではなくても、将来、キリストと教会は一つになることが預言されています。(黙示録19章)今は婚約中です。そんな嫁の気をそらそうとする人に対して神様は怒ります。神様は「ねたむ神」と何度も書かれています。
当時のコリントの教会の人々もキリストの花嫁であるのに、嘘を教えてキリストから離そうとするニセ教師がいました。そのことをパウロはすごく心配して手紙を書いています。
2 というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。
3 しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。
実際、ニセ教師はコリント教会に来て、ウソの教えをしたり、「パウロの話はなっていない。彼は信頼できない」と批判したりしていたようです。(10.10、11.6)神様がお造りになった最初の世界も素晴らしい世界でしたが、悪魔は神様の教えと違うことを教え、エバはそれを信じてダマされてしまいました。同じことが教会の中にも起こります。聖書の教えと違うことを教え、聖書を教えているパウロを批判し、神様の言葉よりも自分の言葉へと導こうとするのが悪魔の手口です。
4 というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった霊を受けたり、受け入れたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです。
自慢したり自己推薦することを聖書は愚かなこととしています。(10.12、10.17-18)けれども、ニセ教師から「あいつは使徒ではない。」と批判されていたパウロは自分が本物の使徒であること、そして、心からコリント教会を愛して犠牲を払って来たことを書かずにはいられませんでした。そのことをパウロは「私の少しばかりの愚かさをこらえていただきたいと思います。」(11.1)と言いつつ、自分の熱心さや愛が神様からのものとして書いています。
2 というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。
5 私は自分をあの大使徒たちに少しでも劣っているとは思いません。
6 たとい、話は巧みでないにしても、知識についてはそうではありません。私たちは、すべての点で、いろいろなばあいに、そのことをあなたがたに示して来ました。
7 それとも、あなたがたを高めるために、自分を低くして報酬を受けずに神の福音をあなたがたに宣べ伝えたことが、私の罪だったのでしょうか。(…中略…)
9 あなたがたのところにいて困窮していたときも、私はだれにも負担をかけませんでした。マケドニヤから来た兄弟たちが、私の欠乏を十分に補ってくれたのです。私は、万事につけあなたがたの重荷にならないようにしましたし、今後もそうするつもりです。(…中略…)
11 なぜでしょう。私があなたがたを愛していないからでしょうか。神はご存じです。
ニセ教師、ニセ牧師は今日も僕らを狙っています。その特徴は神様の言葉よりも自分の言葉を優先すること、つまり聖書に基づかないことです。また、神様の栄光ではなく自分の栄光を求めることも特徴です。「受けるより与える」(使徒20.32)のでなく「与えるより受ける」貪欲さも特徴です。ニセものはその実でわかります。イエス様はおっしゃいました。「実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。」(マタイ7.16)
神様はニセ教師、ニセ牧師を正しくさばいてくださいます。ニセ教師がいても驚く必要はない、と聖書は教えています。
13 こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。
14 しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。
15 ですから、サタンの手下どもが義のしもべに変装したとしても、格別なことはありません。彼らの最後はそのしわざにふさわしいものとなります。
僕らもダマされて神様から離れて行かないように気をつける必要があります。どんなに良い話をする先生がいても、どんなに頭が良さそうな人がいても、本当にそれが聖書的な根拠があるかどうか自分で調べる必要があります。
(1コリント 14:29)
預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。
(使徒 17:11)
ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。
牧師のメッセージがいくら良い話に聞こえても、いくら感動的でも、神様の霊感された言葉から出るものでなければ意味がありません。僕らは自分で聖書を調べる必要があります。聖書を毎日読んで行くと、ニセものが分かるようになります。聖書から外れないように、毎日読みましょう。また、聖書から教えられたことを仲間と共有しましょう。牧師の話が聖書に基づいているのかどうか、もしわからなかったら本人に質問しましょう。また、牧師が聖書から離れないように祈りましょう。悪魔は今日も僕ら教会を汚そうと頑張っています。悪魔は敗北するのが決まっていますが、(15)僕らも目を覚まして戦う必要もあります。逃げずに立ち向かう方法は聖書(真理)と祈りです。悪魔の最後は滅び決定です。
(エペソ 6:11-18)
悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。(…中略…)
腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。
僕らが毎日真理のことばに立ち、霊的な識別力がますます与えられますように。
(ピリピ 1:9-10)
私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。
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