僕らは、放っておくと神様も隣人も愛さないどころか、憎んでしまう傾向にあります。そんな僕らが神様を愛し、隣人を愛するならば、神様のいのちと繋がっている証拠です。愛は僕らからは出ません。愛は聖霊によって神様から与えられるものです。「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」と聖書は言います。(ローマ5.5)もし、ケチで冷たい僕らが兄弟への愛を行うなら、それは神様に繋がった証拠です。「わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。」(1ヨハネ3.14)
マケドニアという地域にある教会はすごく貧乏だったし苦しかったのに、困っているエルサレムの教会を助けたいという思いが与えられました。しかも、喜んで、惜しみなくです。「苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。」とあります。(2コリント8.2)これは神様から出る愛と喜びです。献金は全部神様からの恵みです。神様から預かったものを喜んでささげているだけです。ダビデは言いました。
(1歴代誌 29:14)
まことに、私は何者なのでしょう。私の民は何者なのでしょう。このようにみずから進んでささげる力を保っていたとしても。すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。
僕らが教会で献金したり、礼拝したり、賛美したり、誰かを助けたり、掃除したり、どんな小さなことでも、問われているのは、神様から出てるかどうかです。神様に感謝し喜んでいなければ、それは「自分がやらねば」という義務とか重荷、または「私がやってあげる」という高ぶりです。そこには疲れと虚しさだけが残ります。
テトスという弟子はエルサレム教会のために献金を集め、喜んで届ける、という役目を熱心にしました。力もやる気は神様からのものです。献金や奉仕はイヤいやでなく、強いられてするものでもありません。そこには自慢も負担感もありません。
16 私があなたがたのことを思うのと同じ熱心を、テトスの心にも与えてくださった神に感謝します。
17 彼は私の勧めを受け入れ、非常な熱意をもって、自分から進んであなたがたのところに行こうとしています。
献金を集めて間違いなく届けるには人々からの信頼や間違いのない処理も必要です。なので、誰か一人に任せずに信頼できる複数の人が扱うのが安全です。これは今の教会の会計処理も同じです。イエス様の使徒であるユダは一人だけでお金を預かり、それを盗んでいました。誘惑はいつも一人ぼっちでいるスキを狙って来ます。
(ヨハネ12:6)
彼(ユダ)は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。
2人以上でいることは安全です。聖書は「ふたりはひとりよりもまさっている。」「三つ撚りの糸は簡単には切れない。」と言います。(伝道者4.9、12)パウロはエルサレム教会にお金を届ける時に、テトスの他に2人(合計3人)を一緒に同行させました。彼らが信頼できることも、彼らが熱心なことも、全部が神様からのものです。聖書は献金のことを「恵みのわざ」「主ご自身の栄光」と繰り返します。僕らも同じく、奉仕も献金もどんな小さな愛も全部神様からのものです。そのことを「キリストの栄光」と聖書は言います。僕らの自慢とか、収入が高い低いとか、力があるとかないとか、そんなことは神様の恵みと栄光に入る余地がありません。
18 また私たちは、テトスといっしょに、ひとりの兄弟を送ります。この人は、福音の働きによって、すべての教会で称賛されていますが、
19 そればかりでなく、彼は、この恵みのわざに携わっている私たちに同伴するよう諸教会の任命を受けたのです。私たちがこの働きをしているのは、主ご自身の栄光のため、また、私たちの誠意を示すためにほかなりません。
22 また、彼らといっしょに、もうひとりの兄弟を送ります。私たちはこの兄弟が多くのことについて熱心であることを、しばしば認めることができました。彼は今、あなたがたに深い信頼を寄せ、ますます熱心になっています。
23 テトスについて言えば、彼は私の仲間で、あなたがたの間での私の同労者です。兄弟たちについて言えば、彼らは諸教会の使者、キリストの栄光です。
献金の取り扱いは神様の前にも人の前にも不正のないようにすべきですが、もっと大事なのは、惜しんでイヤイヤながらしているのか、それとも神様から与えられた喜び、感謝があるかどうかです。それこそが神様の前の嘘のない正しさです。
20 私たちは、自分たちが携わっているこの惜しみないわざについて、だれからも非難されることがないように務めています。
21 それは、主の御前ばかりでなく、人々の前でも正しくあるように心がけているのです。
神様からの愛、そして神様への愛は、教会の兄弟姉妹を愛することに現れます。神様はご自分の愛する御子を死なせるほどに世を愛されました。神様は口だけで立派なことを言う方ではありません。僕らの行動に神様の愛は現れます。その神様の愛の証拠を見せて欲しい、と聖書は言います。
24 ですから、あなたがたの愛と、私たちがあなたがたを誇りとしている証拠とを、諸教会の前で、彼らに示してほしいのです。
僕らの愛は神様のいのちと繋がっている証拠です。愛は現れるものです。喜んで現しましょう。神様の愛は僕らの中に現れます。ハレルヤ!
(2コリント 9:8)
神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。
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