聖書は自慢話を「愚かなこと」と言います。ですが、パウロはコリントの教会の皆さんにキリストのために苦しんだ誇りを言わざるを得ませんでした。なぜなら、この当時、コリントの教会にはニセ牧師、ニセ教師が入り込んでいて、パウロを批判し、逆に自分たちの頭の良さ、話のうまさ、血筋などを誇り、教会を支配し、奴隷にし、利用し、食いものにしていたからです。
17 これから話すことは、主によって話すのではなく、愚か者としてする思い切った自慢話です。
18 多くの人が肉によって(人間的な評価で)誇っているので、私も誇ることにします。
パウロは教会を守るため、ニセ牧師、ニセ教師から守られるために自慢話をします。そんなことはしたくないけど、自分がイエス様の使徒であることを証明するには、イエス様のために払った苦しみと犠牲の大きさを言う他にありませんでした。本物とニセモノの違いは明らかです。まず、ニセモノは教会を奴隷にし、支配し、食い物にし、暴力を振るいます。これはイエス様の姿と真逆です。コリント教会はニセモノに支配され利用されていました。
20 事実、あなたがたは、だれかに奴隷にされても、食い尽くされても、だまされても、いばられても、顔をたたかれても、こらえているではありませんか。
イエス様はニセ教師に「気をつけなさい」とおっしゃっています。
(マルコ 12:38-40)
イエスはその教えの中でこう言われた。「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが大好きで、また会堂の上席や、宴会の上座が大好きです。また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」
イエス様の教えは真逆です。威張るのでなく、支配するのではなく、イエス様がしてくださったようにへり下って仕える人です。
(マタイ 20:25-28)
そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」
パウロは、自分が本物のキリストのしもべであり使徒であることをわかってもらうために、キリストの苦しみに連帯して一緒に苦しんだことを言います。これがパウロの誇りであり本物の使徒としての証明でした。
21 人があえて誇ろうとすることなら、――私は愚かになって言いますが、――私もあえて誇りましょう。(…中略…)
23 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。
24 ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、
25 むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
26 幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、
27 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。
イエス様の苦しみに参加することは、僕らクリスチャン全員に言われていることです。もちろん全員が殉教するのではないけど、イエス様のための苦しみに会わない人はいません。愛することは、犠牲を払い何かを失う面があります。愛とは相手のために苦しみ忍耐することも含まれます。しかし、イエス様のための苦しみは天で喜ばれることです。そして、天の報いは大きいと聖書は言います。
(マタイ 5:11-12)
わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。
(ピリピ 1:29)
あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。
僕らはキリストのための苦しみも与えられています。そして、キリストのために苦しむことは教会(キリストのからだ)のために苦しむこととセットです。
教会が苦しむことは、キリストの苦しみです。パウロは教会のために苦しみました。それこそが本物であることの証明でした。僕らも教会のために苦しむことがあります。それは僕らがキリストのからだの部分として繋がっている証拠です。
28 このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。
29 だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。
教会を他人事のように批判し、その苦しみに参加せず、楽な立場でいようとする人はイエス様に繋がってる人ではありません。パウロは教会のために苦しむことがキリストの本物のしもべであることの証拠です。なぜなら、からだは一つの部分が苦しめば全体が苦しむからです。
(1コリント 12:26-27)
もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
僕らは個人主義で、自分さえ良ければいいと思います。迫害や苦しみは避けたいし面倒なことに巻き込まれたくありません。でも、僕らはキリストのからだの一部です。キリストのために苦しむことがあるなら、キリストを愛し隣人を愛するために何かを犠牲にするなら、それは天で喜ばれています。
パウロは教会が傷んでいることを激しく自分の痛みとしました。それが本物の証でした。
29 だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。
僕らも教会の仲間の苦しみを共有するように言われています。また僕らが苦しむときに一緒に悩んでくれる仲間がいます。誰よりもイエス様ご自身が一緒に悩んでくださり重荷も病も一緒に背負ってくださる。
(イザヤ 63:9)
彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。
その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。
教会は利用するところでも支配するところでもありません。楽なことや守られ安心することだけの場所ではありません。イエス様と一緒に苦しみも喜びも共有するからだです。もしキリストのために、その教会のために犠牲を払い忍耐するなら天で喜ばれています。「喜びなさい。喜びおどりなさい。」と聖書は言います。イエス様のために苦しむことがあるなら、喜びましょう。「あなたがたの報いは大きい」と聖書は言います。(マタイ5.12)それこそが本物です。ハレルヤ!
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