2023年2月13日月曜日

2コリント12.1-10

 コップに清い水だけを入れるためには、コップにある汚水を捨てる必要があります。同じように、神様の聖なる力と栄光が現れるためには、僕らの小さく汚れた力や栄光を捨てる必要があります。僕らは「あれができる」「これを持っている」という時には神様を求めません。逆に、「もうムリ」「時間がない」「力がない」「お金がない」「妨害が大きい」と思う時に、本気で主に拠り頼みます。神様は僕らの汚れた力や栄光を捨てさせるために、わざと弱さや侮辱や苦しみを与えてくださいます。何もない時の方が神様が素晴らしさがハッキリ現れます。


9 私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです


栄光と力は人間のものではありません。全部神様のものです自分でもあの人でもなく神様があがめられるように祈り求めて祈るように、とイエス様は言われました。


(マタイ 6:9)

ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるもの(人間の力とは別のもの、完全に神様だけけのもの)とされますように。


そのことを求めて教会は「国と力と栄えは、とこしえにあなた(神様)のものだからです」と祈ってきました。「自分にはできる」と思う人は祈り求めないし、祈っても神様はお手伝いさん程度だと思っています。その人には神様の栄光は現されません。成功しても自分の栄光にしてしまいます。そんな汚れた僕らだからこそ、神様は弱さや足りなさや妨害を与えてくださいます。何もない時こそ神様の栄光は純化されます。


使徒パウロは言葉にできないほどの天の素晴らしさを体験しました。(2コリント12.1-5)その体験があまりにも素晴らしすぎるので、人々がパウロを賛美しないように、また高ぶらないように、肉体の弱さを与えられました。パウロは、自分が高ぶるから与えられた弱さだと言っています。


6 たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです

7 また、その啓示があまりにもすばらしいからですそのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです


パウロはこの弱さをなくしてください、と何度も祈り願いました。でも、傲慢さを打ち砕くため、そしてパウロの力ではなく、神様の力だと分かるために必要な病気でした。神様の答えは、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」(9節)


僕らは弱い時の方が神様の恵みや力が良くわかります。月や星の輝きをハッキリ見るためには部屋の電気はない方が良いです。同じように、神様の輝きをハッキリ見るためには、自分の輝きがない方がよく見えます。体調が良く、時間もお金もある時には神様の栄光も恵みも見えにくく、自慢したいのが僕らです。パウロは神様の力が現されるために、喜んで自分の弱さを受け入れています。


9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのですですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです


自分はこれができる、あれを持っている、と自分の力やお金や持ち物で心が一杯になっている時にはイエス様が入ることができません。しかし、弱さが与えられ、「神様、何もできません。足りません。助けてください」と明け渡す時に神様の力と栄光は現れます。イエス様は言われました。「心の貧しい者は幸いです天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5.3)


苦しみが来たら嫌だけど歓迎しましょう。神様はその苦しみの中で素晴らしいことをしてくださいます。弱さが、侮辱が来たら、神様の栄光が現される時が近いと思って喜びましょう。人が弱いときにこそ、神様の強さが現れるからです。(10)僕らが人からの賞賛を求めることがありませんように。人が過大に評価するといけません。(6)栄光と力はただ神様のものです。ハレルヤ!


(詩篇 115:1) 

私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。

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