2023年2月20日月曜日

マルコの福音書11.12-25

 イエス様が一番嫌っておられるのは「偽善」です。信じてるフリ、祈ってるフリ、形だけの礼拝、形だけの祈り、それをイエス様は怒っておられます。神殿は本来は神様を礼拝する場所でした。でも、それは形だけになり、イエス様の時代は礼拝がビジネスとなっていました。儀式に理由をつけて「このささげものはダメ」「ローマの貨幣は献金としてはふさわしくないから両替しなさい」など、いろんな理由で「いくら取れるか」が彼らの考えの中心になっていました。イエス様は激しく怒ってそれを「強盗の巣」と呼び、神殿のビジネス道具を破壊しまくりました。



15 それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮にはいり、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、

16 また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。

17 そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」


僕らにもイエス様は言われます。「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」と。

神殿は今エルサレムにはありません。(AD70年に壊されました。)ですが、新約聖書が僕らに教えている神殿は2つあります。1、信じる人たちの肉体。からだ。(1コリント6.19など) 2、教会。(建物ではなくイエス様中心に集まるところ。1テモテ3.15など)


僕らのからだは祈りの家です。人に見せるためのものではないし、他人からお金や評価をもらおうとするからだではありません。教会も祈りの家ですこちらも他人に何かを見せる場所でも人からお金や評価をもらう所でもありません。神様にささげるものです。一緒に賛美し、感謝し、祈り、ささげ、助けあい、愛し合うのが教会です欲しがる所でも、もうけるところでもありません。


ですが僕らの実態は賛美を口だけで歌いながら他のことを考えたり、形だけの祈りをします。礼拝に集いながらも心の中は悪いことを考えるのが僕らの現実です。教会も祈りの家ではなく、何か自分の得になるか、快適か、楽しいか、何かもらえるか、など利益主義、損得中心になってしまうのが僕らの罪の傾向です愛はささげます。が、罪はいつも自己中ですイエス様は神殿で儲ける人たちを本気で怒り追い出しました。


このイエス様の怒りの前後に、葉だけを茂らせて、実がないイチジクの木をイエス様が枯らしたことを聖書は書いています。話の流れから、みせかけだけの信仰者や口だけの礼拝者への怒りと呪いの象徴だと言われています。


神様は全部ご存知です。僕らの心は全部知られています。


(新約聖書 ヘブル 4:13)

造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです


僕らは正直に自分の弱さ、自分の傲慢さ、自分のどん欲さを認めて神様に言いましょう。それこそが本物です。神様は驚きません。そんなこと、もう知ってます。


イエス様は形でなく、心から信じなさい、と言われます。神様は小さい方ではありません。バカにされる方ではないし、軽く流される方ではありません。祈りは、大きすぎる方との交わりです僕らの祈りは神様への信頼が問われています。神様が求めておられるのは本気の信頼です表面だけの祈りも礼拝も賛美もいりません。そして祈りは聞かれ、答えられます。



22 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。

23 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。

24 だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。

25 また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」



僕らの心も口も神様の家です。そして、教会は神様の家ですそして、僕らは祈りの家です神様との本気の交わりを絶やすことがありませんように。見かけが整っても、人が多く集まっても、大きなイベントが成功しても、中身がないなら神様の怒りを受けるだけです



(旧約聖書 申命 5:11) 

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに(意味もなく、むなしく、形だけで)唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。


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