イエス様は僕ら人間を癒し回復させてくださる方です。人間を苦しめようとか縛ろうとか、奪おうとすることはありません。
神様が与えてくださった10の教えの中に「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」(出エジプト20.8)というのがありますが、これも、人間が癒され、本来の姿と取り戻すための教えです。イエス様は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11.28)とおっしゃいました。
教会の交わりが疲れる、という人がいます。確かに罪人の交わりなので疲れることがあると思います。でも、交わりがイエス様との交わりなら「わたしがあなたがたを休ませてあげます」とおっしゃる言葉の通りにホッとします。人が作ったルールや評価やマナーで「ああしなければ」「こうしなければ」と気を使ったり縛られているなら疲れます。
イエス様は弟子たちと安息日に麦畑を通ってそこで穂を摘んで食べていました。弟子たちが空腹だったからです。安息日は苦行の日ではなく、癒しの日です。イエス様は「安息日は人間のために設けられたのです。」とおっしゃいました。(マルコ2.27)イエス様は空腹な弟子たちが食べることができるように、わざわざ麦畑を通っていかれました。イエス様は安息日に人を癒されます。片手が動かない人を癒されたのも安息日だし、38年間寝たきりの人が癒されたのも安息日でした。(マタイ12.9-、ヨハネ5章)
ところが、律法を厳格に守ろうとするパリサイ人たちは安息日に畑で麦を食べている弟子たちが気に入りません。麦を摘んで食べるのは労働だ、という文句です。
(2節)
すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」
神様は真実な愛を求めておられます。ルールを守ったとか、儀式をしたからオッケーと思うのは人間の自己満足です。イエス様はおっしゃいます。
(7節)
『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。
『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とは旧約聖書ホセア6.6の言葉です。続きには「むしろ神を知ることを喜ぶ」とあります。神を知るとは、神様を経験することです。神様の愛の経験は表面的にルールを守ることとは全然違います。
(3-5節)
しかし、イエスは言われた。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。神の家にはいって、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。
祭司以外は食べてはならないパンでも、空腹で困っていたダビデとその部下たちは食べさせてもらいました。神様の愛は律法をはるかに超えているし、そもそも、律法を作ったし、神殿を作り、そのルールを決めてくださるのはイエス様ご自身です。そのイエス様が儀式を守る事よりも神様の愛の経験をすることを優先させています。
(6節)
あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。
(8節)
人の子は安息日の主です。
律法を作った方であり、神殿よりも大きな方がイエス様です。なので、安息日をどのように過ごしたらいいのか、それはイエス様に聞けばわかります。神様は人を癒し、養ってくださるかたです。そして、その神様の愛と癒しは天から自動的に降ってくるのではなく、キリストの体である教会を用いられます。教会の交わりが重荷を降ろす場所であり、休息であり、癒しであり、平安をもたらすものでありますように。
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