2023年2月1日水曜日

マタイ12.9-21

 僕ら人間は「自分が正しい!」と思いたいものです自分個人だけでなく、グループとしても「うちの○○派が正しい!」とか「うちの教会が正しい!」と思いたいものですそして自分の正しさを証明するために議論したりします。ところが、イエス様は真理を語りますが、争いを好まず、ただ人を癒すことをされます。必要のない争いが起こる時にはその場を避けて立ち去っています。


当時の聖書の先生たちのグループの中で特に厳格に律法を守ろうとするパリサイ派と言われる人たちは、イエス様と議論し自分たちの正しさを証明するために質問をふっかけてきます。


(9-10節)

イエスはそこを去って、会堂にはいられた。そこに片手のなえた人がいた。そこで、彼らはイエスに質問して、「安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」と言った。これはイエスを訴えるためであった。


彼らは「安息日は人の癒しのためであっても労働すべきでない」という考えを持っています。それを証明するためにイエス様に挑戦してきます。イエス様の答えは明確です貧しい人がたった一匹の羊を飼っていたら、その子を大事にします。たとえ安息日でもその羊が穴に落ちて苦しんでいたら助けるのは当たり前です神様にとって人間は羊よりもはるかに大事な存在です安息日に癒すのは当然です


(11-13節)

イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」

それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。


パリサイ派の人たちの興味は「自分がいかに正しか」ということに時間とエネルギーをかけますが、イエス様は議論よりも人を癒されます。律法をどのように解釈して守ったらいいか?とか、安息日はどう過ごすべきか?という議論は今もよくありますが、イエス様の答えは明快です愛することがその答えです


(ローマ13:8-10)

他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。(…中略…)愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。


パリサイ人たちはイエス様を憎み、怒り、殺す相談をはじめます。でも、イエス様は黙ってその場を立ち去られたとあります。さらに争いが増えないように、癒された人たちには口止めされました。


(14-16節)

パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると多くの人がついて来たので、彼らをみないやし、そして、ご自分のことを人々に知らせないようにと、彼らを戒められた。


このような救い主が地上に来られることはずっと昔から預言されていました。預言者イザヤが預言した言葉はまさにイエス様のことです


(17-21節)

これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。

「これぞ、わたし(神様)の選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。

彼はいたんだ葦(使い物にならず捨てられる葦、つまり人々から捨てられるような人たちのこと)を折ることもなく、くすぶる燈心(役に立たず切り取られるランプの芯、役に立たないと見られる人たちのこと)を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。

異邦人は彼の名に望みをかける。」


イエス様は余計な争いから身を避けて、ただ、弱い人、困っている人を見放すことなく助け、癒し、愛し続けてくださいました。

僕らは自分が正しい、と頑張らなくても大丈夫です。弱くても、ぐずぐずしていても大丈夫ですイエス様は今日も弱い人たちの味方です僕らに力があってもなくても、健康でも病気でも、うまくいってもいかなくても、見放されることはありません。安心しましょう。誰よりも愛し続けてくださる方です。そして、僕らもその愛を他の人に与えましょう。愛すること、愛されることがイエス様の答えです。ハレルヤ!

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