2023年2月15日水曜日

1コリント5章

 罪とは神様から離れることです神様に感謝しながらウソをついたりむさぼったり淫行をしたり他人を憎んだりすることはできません。罪は高ぶりです神様より自分の考えの方がいい、という高ぶりですそれを放置しても何のいいこともありません。


聖書は罪をやめるようにと教えています。それは自分だけではなく、教会の仲間にも罪をやめるように言うのが愛です罪をやり続ける人は神様から離れ、神様からの愛と祝福を失って行くからです罪をやめるように言うのは愛することです仲間が罪をやり続けているのを知っているのに悲しむことがないのは、「どうぞ神様から離れて不幸になってください」と威張っているようなものですそれこそが冷酷な高ぶりだと聖書はいいます。この当時、コリント教会の中にはヒドい淫行があったようです淫行はヒドい罪ですが、さらに問題なのはそれを誰も注意せず「わたしたちは寛容だ」と高ぶっていたことです



1 あなたがたの間に不品行(淫行)があるということが言われています。しかもそれは、異邦人の中にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいるとのことです

2 それなのに、あなたがたは誇り高ぶっています。そればかりか、そのような行ないをしている者をあなたがたの中から取り除こうとして悲しむこともなかったのです



聖書は罪のことを、全体を膨らましていくパン種(イースト菌)のようだと例えています。誰かの罪を放置するなら教会全体が汚染されていきます。

だから、小さな罪を取り除きなさいと教えています。



6 あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。

7 新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです



全ての人は罪人です。でも、そんな僕らの汚れをイエス様はゆるし、きよめてくださいました。イエス様の十字架の血(処刑)が僕らを処刑済みとみなし、ゆるし、きよめると聖書は繰り返します。まるで、旧約聖書の時代に、神様のさばきが過ぎ越されるように身代わりに小羊を殺したようにイエス様は殺される小羊のように十字架で死んでくださいました。だから、教会は「罪(パン種)のないもの」と言われています。(7節)せっかく罪が消え去り、赦され、きよめられたのに、また、全体を汚すような汚染物質を持ち込んで、放置してはならない、と聖書はいいます。全体に悪影響が広がるからです



6 あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。

7 新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。



パウロはコリント教会の中で淫行をする人たちをさばきました。「さばく」ことの意味はその人の罪を注意し、止めるようにいうことです。それは愛することです悔い改めない人を「それでもいいよ」と言うのは実は愛のないことです本人が愛の忠告を無視し続けるのなら、教会全体に知らせ、本人のお望み通りに悪魔に従うようにさせることが聖書がいう「さばく」ことです。イエス様のからだである教会に交わりつつ、同時に悪魔に従い続けることは不可能です。なので、パウロは本人の希望で罪を続けるのなら、お望み通りに教会との交際を切り、サタンに従わせました。



3 私のほうでは、からだはそこにいなくても心はそこにおり、現にそこにいるのと同じように、そのような行ないをした者を主イエスの御名によってすでにさばきました。

4 あなたがたが集まったときに、私も、霊においてともにおり、私たちの主イエスの権能をもって、

5 このような者をサタンに引き渡したのですそれは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです



11 もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な(淫らな)者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。(…中略…)

13 その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。



罪とは、神様から離れることです神様を愛しながら感謝しながら淫行はムリです神様に感謝しながら愛しながら貪欲も偶像礼拝も悪口も酔っぱらうことも盗みもムリです。罪とは神様から離れることです神様から離れることは神の家族とも離れることですその人は神様から離れる結果を自分自身で味わうことになります。そして、ようやく、その惨めさを知ります。その結果、「それによって彼の霊が主の日に救われるためです。」(5節)イエス様は神様のことを放蕩息子が帰ってくるのを待つ父親のようだと教えています。神様は息子が望む通りに罪の生活に堕ちていくことを止めませんでした。悲惨な結果を味わって、ボロボロになった息子は悔い改めて父親の所に帰ります。(ルカの福音書15.11-24)パウロが罪をやめない人を教会から追い出し、放置するのは、「それによって彼の霊が主の日に救われるためです。」(5節)イエス様も言われました。



(マタイ 18:14-17)

14 このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。

15 また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです

16 もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです

17 それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。



教会は、愛をもって、自分自身も吟味しつつ、互いに忠告し合って行く兄弟姉妹です教会の仲間の言動について「あれ?」と思った時、見て見ぬフリをするのでも噂話をするのでもなく直接本人に「大丈夫?」と声をかけるのが愛です。まず、自分の心を調べましょう。仲間の言動が変だったら声をかけましょう。神様から離れていくなら意味がありません。愛することは相手が神様に近づくように祈り、声をかけ、行動することです

僕らの交わりが表面だけの交わりでなく、本当に相手が神様に祝福されるための交わりとなりますように。

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