僕が一番苦手で嫌いな科目は「国語」でした。その僕が分厚くて字が小さくて難しい言葉がいっぱい書いてある聖書を教えているなんて奇跡です。…ですが、聖霊を受けた人には知恵が与えられると聖書は言い切ります。国語力がなくても、聖霊はイエス様の全ての言葉を理解させ、しかも教える力を与えてくださいます。
(ヨハネ 14:26)
助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
だから、頭が悪いとか、聖書が難し過ぎるとか、自分には理解力がないと心配しなくても大丈夫です。聖書を書いたパウロでさえ、全部が聖霊の力によっています。
(1コリント 2:3~5)
私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。
逆に「自分は知恵がある」「自分はわかっている」「こうすればうまくいく」と思う人は危険です。なぜなら神様に与えられる知恵はこの世のものとは全然違うものだからです。やがてクリスチャンたちがイエス様と一緒に世界をリードしさばく時代が来ると聖書は言います。僕らが思う以上に、しかもこの世の知恵とは違うすごい知恵と指導力が与えられるようです。
(黙示録 20:4)
彼ら(復活したクリスチャンたち)はその上(天にある座)にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。(…中略…)彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。
(2テモテ 2:11-12)
次のことばは信頼すべきことばです。「もし私たちが、彼(イエス様)とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。
こんなに素晴らしい神様からの知恵や力、そして人からは出ない真理のことばが与えられているのに、コリント教会の人たちはもめ事や問題があると、すぐにこの世の裁判所に行ったようです。彼らが求めているのは神様のことばではなく、この世の力です。パウロはそれを責めています。
1 あなたがたの中には、仲間の者と争いを起こしたとき、それを聖徒たち(一緒にみことばを求める教会の仲間)に訴えないで、あえて、正しくない人たち(神様のことばを知らない裁判所)に訴え出るような人がいるのでしょうか。
2 あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。
3 私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを、知らないのですか。それならこの世のことは、言うまでもないではありませんか。
4 それなのに、この世のことで争いが起こると、教会のうちでは無視される人たちを裁判官に選ぶのですか。
コリント教会の間には仲間割れがあり、それがヒートアップして互いに「訴えてやる」という状況だったようです。パウロはそれを叱っています。
5 私はあなたがたをはずかしめるためにこう言っているのです。いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することのできるような賢い者が、ひとりもいないのですか。
6 それで、兄弟は兄弟を告訴し、しかもそれを不信者の前でするのですか。
7 そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。
コリント教会がやっていることはイエス様の教えとは全然違うものでした。彼らが求めているのは世の力、世の快楽です。パウロは「だまされてはいけません」と続けます。憎い人がいたら裁判でやり返してやるだけでなく、「淫行しつづけても大丈夫、偶像礼拝もオッケー、同性愛もいいし、貪欲でも泥酔してもいい」と教える人たちがいたようです。パウロはイエス様の教えと全然違う人たちに「だまされてはいけません」と言います。多くの教会の仲間が神から離れたまま、神様の代わりにこの世の快楽によって自分を満たそうとしています。それが、9-10節のリストです。
9 だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、
10 盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。
一度でもそういう事をした人はアウト、ではありません。そのような汚れた人が洗われたのです。この直後にこう言われています。
11 あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。
コリントの教会は、淫らだった人たち、偶像を礼拝していた人たち、娼婦、同性愛者、泥棒、酔っ払いたちが集まっていました。そんな人たちがイエス様によって洗われ、聖なる者とされました。戻る必要はありません。「だまされてはいけません」とパウロは言います。イエス様の十字架による犠牲と完璧な赦しときよめを踏みにじって、また淫らなことをしようかな、とか、泥棒や泥酔もいいじゃないか、と教える人がいたからです。
イエス様のことばはこの世の教えとは全然違います。地上の快楽とか楽しみとか力とは違う、聖霊によって与えられる天からの喜びと知恵と力が今、与えられています。それはすでに始まっています。イエス様のことばを求める時に、この世ではののしられたり、奪われたり、バカにされたりことがあります。でも、それこそが永遠に価値があり、栄光と祝福をもたらすものです。この世の知恵でも力でもなく、もう地上のことは十分です。残りの人生は神様のためにいきましょう。バカにされても大丈夫です。神様の下さる栄光と祝福は圧倒的に大きなものです。
(1ペテロ 4:2-5)
あなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行ない、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。彼らは、あなたがたが自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口を言います。彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません。
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