よく、「牧師を見ないでイエス様を見てください」と言いますが、使徒パウロはそうではありません。「私にならう者となってください。」と言い切ります。(4.16) 彼の教えは口先だけでなく、立派な議論ではなく生活そのものでした。彼はモデルを示します。愛について語る人はいますが、実践することの方が大事です。いくら立派なことを教えていても、実践しなければ無意味です。いくらみことばを聞いても行わないなら、ひどく倒れるとイエス様もおっしゃいます。
(マタイ 7:24-27)
わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」
パウロ自身は弱い人です。そんな彼がイエス様を教え、実践し、模範を示して教会が建て上がってきたのは彼の力ではなく、御霊の現れです。
(1コリント 2:4)
そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。
パウロはただ、神様に頼り御霊によって生きています。この世の知恵とか力ではありません。神様の力です。いくら議論する力があっても神様の力の現れでなければ意味がありません。コリント教会は知恵とか力がもてはやされ、議論が盛んで派閥争いをする人たちがいました。誰が偉いか有能か、と比べ合うことには価値がありません。パウロは人の力ではなく、神様の力を見せてほしいと言います。
19 しかし、主のみこころであれば、すぐにもあなたがたのところへ行きます。そして、思い上がっている人たちの、ことばではなく、力を見せてもらいましょう。
20 神の国はことばにはなく、力にあるのです。
パウロはそのように教えて自分が育てた人を「わたしの子」と呼びます。テモテは忠実な子でした。パウロにならうことは、キリストにすがることです。この当時「神学校」はありません。ただ、一人の指導者が一人に模範を示すことによって次の指導者が育ちました。パウロはテモテを育てました。口先でなく、神学を語ることができるようになったのでなく、キリストに忠実に生きる模範によって育った子です。
17 そのために、私はあなたがたのところへテモテを送りました。テモテは主にあって私の愛する、忠実な子です。彼は、私が至る所のすべての教会で教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。
テモテはパウロの「生き方」を模範として育ちました。意外にも、聖書は模範の大切さを繰り返しています。僕らにも模範となる人が必要です。また、自分自身が模範になりなさい、と聖書は教えます。
(1テモテ 4:12)
年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。
(テトス 2:7)
すべての点で自分自身が良いわざの模範となり、教えにおいては純正で、威厳を保ち…
自分に聞いてみましょう。頭でっかちで行動がなかったり、口だけになっていないでしょうか。御霊の力とその喜びの中を生きているでしょうか。神の国は、ことばではなく御霊の力の現れです。僕らの生活を全部を新しくする、救いの力、御霊の現れを求めましょう。口先で教えるのではなく、次の人たちに模範を示しましょう。
19 思い上がっている人たちの、ことばではなく、力を見せてもらいましょう。
20 神の国はことばにはなく、力にあるのです。
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