2023年2月15日水曜日

1コリント4.1-13

 僕らは他人を「あの人はこう、この人はこう」と評価します。知恵があるかどうか、力があるかどうか、お金や能力で人を評価し、またそれを持っている人は自慢します。しかし、人間の評価はアテにならないどころか間違っています。人に見えることのはごく一部です。神様だけが最終的な、しかも隠れた所も明るみに出して人をさばく方です。聖書は「さばいてはならない」と言います。神様だけが人を正しく裁く方です。そして、人間は自分のことも他人のことも正しく評価することができません



3 しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。

4 私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です

5 ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです



神様の目は僕らの「心の中のはかりごとも」明らかに見ておられ、誰も見ていない「隠れた事」も見ておられます。神様が僕らに願っていることは神様の下さるみことばに「忠実」であることです。人の目があってもなくてもです誰も見ていない時に神様に忠実であることは神様に喜ばれます。




1 こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。

2 このばあい、管理者には、忠実であることが要求されます。



この時、コリント教会の中では「あの先生の話は説得力がある」とか「あの先生はこんな経歴がある」とか、表面的なことで指導者を評価していました。しかも派閥争いにも発展していたようです。でも、その評価は間違っていました。イエス様の評価は「忠実さ」です誰も見ていないところでイエス様のことばに付けたしたり引いたりしない忠実な指導者こそが神様に評価されます。


6 あなたがたが、私たちの例によって、「書かれていることを越えない。」ことを学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して高慢にならないためです


イエス様に忠実に従う人は、決して威張りません。なぜなら全ては神様から頂いたものだからです知恵も力も神様のものです。命も神様のもの、信仰も神様からのものです。神と人を愛することができるなら、それも神様から頂いたものです。祈ることが出来るなら、それも頂き物です。誰も「○○先生はすばらしい」とか、「あの人はすばらしい」と誇ることはできません。


7 いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。



コリント教会には知恵や力を誇る人や、富や権力を誇る人が多かったようですところがイエス様は地上では何も持っていませんでした。全ての権力や栄光をもっているイエス様が人からバカにされ、捨てられました。そして弟子たちはイエス様に習います。イエス様が迫害され、敵を愛し祝福されたように、パウロもイエス様のしもべとして、迫害の中でも敵を愛し祝福します。



11 今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。

12 また、私たちは苦労して自分の手で働いています。はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、

13 ののしられるときには、慰めのことばをかけます。今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです



イエス様に従うことは、この世で威張るのとは真逆ですイエス様に従うことはイエス様のために苦しみにも会うことですそして、この世で相手にされないこともあります。それでも、神様から賞賛されよろこばれます。



5 主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです



(マタイ 5:11-12)

わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。


たとえこの世で褒められなくても、損に見えても、イエス様に忠実であることは神様に喜ばれます。この世の評価はくだらない、小さなことです。でも、イエス様に喜ばれる事は永遠に価値のある素晴らしい事です人にではなく、イエス様に喜ばれることを選びましょう。天の報いは永遠です

0 件のコメント:

コメントを投稿