この世界は苦しみ悲しみに満ちていて、そして死んでいく世界です。これはもう、神様が造ってくださった時の良い世界ではありません。最初の人間アダムが神様から離れて以来、罪が、苦しみ悲しみが、死が病が延々と子孫に受け継がれている、汚れた世界です。死はアダムの罪によって始まりました。本当は死はありませんでした。
21 というのは、死がひとりの人を通して来たように(…中略…)
22 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように…
みんな死にます。もし、その先の希望がないなら、この地上で楽しみを見つけて生きるしかなくなります。美味しいものを食べて飲んで、楽しくやろう、とか、能力や権力を手に入れよう、夢を叶えよう、って思います。でも、いくら美味しいものを食べても、名誉があっても富があっても夢がかなっても、死と共に消えていくのが現実です。
32 もし、死者の復活がないのなら、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」ということになるのです。
イエス様はおっしゃいました。
(ルカ12.16-21)
「ある金持ちの畑が豊作であった。(…中略…)そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」
でも、聖書は僕らに死後の希望を与えてくださっています。僕らはイエス様と同じように復活し、さらに栄光まで約束されています。
20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂(最初の実り、お手本のような実り)として死者の中からよみがえられました。
イエス様は復活して今、全ての栄光を持って生きておられます。それは、僕らの最初の実り、お手本です。僕らもイエス様と同じように復活します。なので、聖書はイエス様のことを初穂、と書きます。他に、時々イエス様のことを長男、と表現します。最初に復活してお手本を見せてくれる僕らの長子(長男、兄貴)だと表現する箇所があります。
(ローマ 8:29)
神は、あらかじめ知っておられる人々(クリスチャンのこと)を、御子のかたちと同じ姿(復活と栄光の姿)にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
イエス様が初穂、長子、なので、もちろん僕らは後で復活します。
21 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
22 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。
23 しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。
24 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。
その時、イエス様は世界をもう一度回復させてくださいます。その時には、イエス様以外のどんな権力も意味がなくなります。お金の力も、数の力も、軍事力も意味がなくなります。どんなに威張っていた人ももう、その力を失います。今、最も僕らを脅す力を持っているのは「死」です。が、死もイエス様に滅ぼされます。
26 最後の敵である死も滅ぼされます。
この希望があるから、クリスチャンはこの世のことを絶対的に重要なこととは思いません。もちろん、この世で誠実に神様と隣人を愛するのは大事なことです。ですが、神様から離れたものを追いかけているのなら不幸です。後で消えてしまうものだからです。
(1ヨハネ 2:16-17)
すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。
この世だけの欲、自慢など神様から出ないものを求めるのはやめなさい、と聖書は言います。そのようなことに誘う友だちにも注意しなさい、と教えています。
32 もし、死者の復活がないのなら、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」ということになるのです。
33 思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。
34 目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。
パウロはこの世のことに命をかけているのではなく、なくならない赦しと復活の希望に命をかけました。たとえ、虐められることや嫌われることがあっても、将来与えられる復活、そしてキリストに喜ばれることを選んでいます。
31 兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です。(福音のために苦しんでいて、死にそうになることが毎日のようにあります。)これは、私たちの主キリスト・イエスにあってあなたがたを誇る私の誇りにかけて、誓って言えることです。
32 もし、私が人間的な動機から、エペソで獣と戦った(エペソの町でイエス様に反対する人たちからひどい目にあった)のなら、何の益があるでしょう。
パウロも、僕らも死の向こうにある喜びと希望とに支えられています。なくなる命ではなく、永遠の命に僕らは繋がっています。死が一歩一歩近づいて来ることを感じる時にも、復活の希望ゆえに希望と平安を持つことができます。イエス様こそ全ての権力を足の下の置く方です。今日、みなさんを苦しめる力がどんなに強く見えても、イエス様は滅ぼされます。復活は事実です。そして、僕らも復活します。悪も死も一掃されます。復活の後が人生の本番です。今は本番のための準備期間です。地上の歩みでなく、永遠の命を見て歩みましょう。どんなに苦しみが大きく見えても、いずれなくなってしまいます。
イエス様の言葉を信頼して選ぶならその祝福と報いと栄光は想像以上に大きいです。
目先の出来事に振り回されず、今日も御霊によって心の目が永遠を見上げる目でありますように。
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