2023年2月14日火曜日

1コリント16.1-12

 この世のものはいつか滅び消えてしまいます。でも、イエス様が下さる復活の命と栄光は確かです死は終わりではなく、その向こうに栄光の人生が与えられていることを聖書は何度も教えています。消えていくこの世ではなく、将来与えらえる復活の希望と目標のために生きるようにと聖書は教えます。


(15:58)

ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。



たとえ、地上の人生が苦労の連続だったとしても、神様のための苦労ならムダなことは一つもありません。むしろ主のための苦労があるなら報いは大きいですその一例としてお金の使い方を具体的にすすめています。



1 さて、聖徒たちのための献金については、ガラテヤの諸教会に命じたように、あなたがたにもこう命じます。

2 私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。



この時集めた献金を届ける先はエルサレム教会の人たちですエルサレムの教会は迫害を受け、生活にも困る状況でした。


3 私がそちらに行ったとき、あなたがたの承認を得た人々に手紙を持たせて派遣し、あなたがたの献金をエルサレムに届けさせましょう。


実は、エルサレム教会とコリント教会にはユダヤ人の伝統や儀式を守るかどうか、という考えの違いがありました。エルサレム教会の人は主にユダヤ人、そしてコリント教会の人たちは主に異邦人です。「ハッキリ言ってあの教会の人たち、嫌い。」と思っている人たちもいたかもしれません。コリント教会の人たちは派閥意識が強い人たちですでもパウロは繰り返し書いています。イエス様につながるなら派閥はないし、全員がキリストの体ですたとえ自分たちとは考えが違ったとしても困っている教会のための献金を集めるようにと言います。これが、地上を思わず復活の世界を思う選択です復活の栄光を知れば知るほど、今のお金の使い方がこの世のためではなくなり、神様のため、キリストの体の仲間たちのためになっていきます。



2 私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。

3 私がそちらに行ったとき、あなたがたの承認を得た人々に手紙を持たせて派遣し、あなたがたの献金をエルサレムに届けさせましょう。

4 しかし、もし私も行くほうがよければ、彼らは、私といっしょに行くことになるでしょう。


お金に限らず自分が預かっている様々なもの、能力、時間もお金も神様のものです。そしてそれらを計画的、安定的に取り分けておくようにと聖書は教えます。余ったものとか、お釣りは「いらないもの」「余分なもの」ですそれは献金ではなく処分です収入に応じて最初に取り分けておきなさい、と聖書は教えます。この世を見ているのか、神様の喜びを見ているのかでお金の使い道は変わります。献金は神様に喜ばれます。困っている仲間を助けることは神様に捧げるのと同じです。『これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』と主は言われます。(マタイ25.40)しかも神様のために使う人は神様はもっと多く預けてくださいます



(マタイ 25:21)

主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』


(2コリント 9:5-8)

どうか、この献金を、惜しみながらするのではなく、好意に満ちた贈り物として用意しておいてください。私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です



神様は教会を通さなくても、困ってる教会にお金を与えることができます。…ですが、やっぱり教会を用います。なぜなら「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官」だからです。(1コリント12.27)

それで、パウロもテモテもソロ活動ではありません。今の牧師も宣教師もソロ活動ではありません。キリストの体である教会につながっていることが大前提ですキリストの体につながってなければ何もできません。パウロは教会に滞在し、教会から送り出されることを願っています。同じく、若いテモテも教会によって受け入れられるように、と言います。



6 そして、たぶんあなたがたのところに滞在するでしょう。冬を越すことになるかもしれません。それは、どこに行くとしても、あなたがたに送っていただこうと思うからです

7 私は、いま旅の途中に、あなたがたの顔を見たいと思っているのではありません。主がお許しになるなら、あなたがたのところにしばらく滞在したいと願っています。(…中略…)


10 テモテがそちらへ行ったら、あなたがたのところで心配なく過ごせるよう心を配ってください。彼も、私と同じように、主のみわざに励んでいるからです

11 だれも彼を軽んじてはいけません。彼を平安のうちに送り出して、私のところに来させてください。


教会に受け入れられ、養われ、送り出されることは、イエス様に受け入れられ、養われ、イエス様につながりつつ送り出されるのと同じ意味です


(ヨハネ 15:5)

わたし(イエス様)はぶどうの木で、あなたがたは枝です人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです


今日も僕らの持ち物全部を使って神様を愛し、仲間を愛しましょう。神様を愛することは、仲間を愛し助けることと同じです教会の仲間を大事にすることは神様を愛すること、神様を愛することは教会の仲間を大事にすることですお金を使って、時間を使って、言葉を使って、力を使って、神様と人を愛しましょう。考えの違う人を助けましょう。主は喜んでくださっています。

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