聖書はイエス様が今日も生きていることを伝えています。これは思い込みでなく歴史的な事実だと繰り返して書いています。使徒パウロは手紙でこのことを伝え、その最後に「目を覚ましていなさい」と言います。イエス様が生きている事実をいつも考えているように、という意味です。今、イエス様の命は僕らの中に始まっています。今日、イエス様に祈り、交わり、みことばを聞くことは、生きているイエス様の命そのものを得ること、力そのものを得ることです。
13 目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい。
14 いっさいのことを愛をもって行ないなさい。
イエス様の命が僕らの中にあると、強くなります。イエス様が強いからです。強さは僕らのがんばりではなく、イエス様の現れです。また、僕らから神様の愛が出ます。これもまた、僕らの努力ではありません。ことわざに、「朱に交われば赤くなる」(人は交わる相手や環境によって染まるという意味)とありますが、同じように、イエス様と交われば強くなり、そして愛の人になります。
僕らはイエス様によって神と人を愛するようになります。…ですが、実際どうしたらいいのか、お手本を示してくれる人も必要です。この当時、コリント教会にも苦労しながらも愛と奉仕をする、お手本の人がいました。パウロは彼らのように、そのようにしなさい、と教えます。
15 兄弟たちよ。あなたがたに勧めます。ご承知のように、ステパナの家族は、アカヤの初穂であって、聖徒たちのために熱心に奉仕してくれました。
16 あなたがたは、このような人たちに、また、ともに働き、労しているすべての人たちに服従しなさい。
僕らの周りにもお手本となる先輩が与えられています。パウロは「私を見ならう者になってください」とか「私たちを手本として歩んでいる人たちに、目をとめてください」と言います。(ピリピ3.17)イエス様のために、御霊によって熱心に働いている人たちを見つけ見習うのは有益です。(16)また、僕らも見習うだけでなく、他の人の模範になりなさい、とも聖書は言います。
(テトス 2:7)
すべての点で自分自身が良いわざの模範となり、教えにおいては純正で、威厳を保ち、
非難すべきところのない、健全なことばを用いなさい。
(1テモテ 4:12)
年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。
イエス様のために奉仕すると、必ず攻撃や迫害も受けます。その時に必要なのは励ましです。そして、神様からの愛と励ましもまた、教会の交わりの中で具体的にされます。パウロは助けるために訪問してくれた仲間を喜んでいます。愛は受けることも必要だし大切です。
17 ステパナとポルトナトとアカイコが来たので、私は喜んでいます。なぜなら、彼らは、あなたがたの足りない分を補ってくれたからです。
18 彼らは、私の心をも、あなたがたの心をも安心させてくれました。このような人々の労をねぎらいなさい。
神様は「一人でいるのは良くない」(創世記2.18)とおっしゃいました。最初から人間は愛し愛されるために存在しています。パウロは助けられたことを喜んでいます。イエス様のための働きには不安や孤独を感じることもありますが、そんな時にも神様の愛は恐れを締め出します。(1ヨハネ4.18)パウロは仲間の助けによって「私の心をも、あなたがたの心をも安心させてくれました。」と書いています。(18)神様の愛は教会の仲間が愛しあい受け入れ合うことに現れます。そして神様の愛は僕らに平安を与えます。
イエス様と交わっていると兄弟姉妹への愛が生まれます。教会の仲間を愛し、受け入れ挨拶するのは、その場しのぎでも単なるマナーでもなく、神様の愛の現れです。教会の人びとによろしく、と心から挨拶を送るのは「主にあって心から」です。それはイエス様の中で、浸されて、という意味です。
19 アジヤの諸教会がよろしくと言っています。アクラとプリスカ、また彼らの家の教会が主にあって心から、あなたがたによろしくと言っています。
20 すべての兄弟たちが、あなたがたによろしくと言っています。聖なる口づけをもって、互いにあいさつをかわしなさい。
口づけは当時の文化の中で最高の挨拶と歓迎の表現でした。それを日本の教会に置き換えるなら、丁寧なお辞儀とか、心から喜んで歓迎することとか、握手とか、若い人ならハグをすることとか、そのような最高の歓迎の表現をしなさい、という意味です。しかも「聖なる口づけ」です。「聖なる」とは、神様のもの、という意味です。神様からの最高のもてなしや愛や尊敬を現しなさいという意味です。神様の愛は僕らの表現を通して表されます。
23 主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。
24 私の愛は、キリスト・イエスにあって、あなたがたすべての者とともにあります。アーメン。
パウロは「主イエスの恵みが、あなたがたに…」と書いたすぐ後で「私の愛は…あなたがたすべての者と共にあります」と書きます。もう、イエス様の愛とパウロの愛には境目がありません。僕らはキリストの体、一人一人は器官です。(1コリント12.27)イエス様はぶどうの木、僕らは枝です。(ヨハネ15.5)そこには境目がありません。
今日も僕らの心が、手足が、口が、表情が、神様の愛の現れでありますように。今日も僕らのがんばりによらず、神様の愛と力に浸り、それがにじみ出る日でありますように。
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