2023年2月21日火曜日

詩篇28篇

 詩篇28篇

形だけ祈るとか、口だけで(本気じゃないのに)神様のことを言ったりすることを聖書は禁止しています。(旧約聖書 出エジプト20.7)神様はリアルに生きて働いておられ、祈りに答えてくださる方です。詩篇の祈りはお手本です。ここに書かれたダビデの祈りは本気だし、必死です。祈りというよりも叫びです。本当に敵に殺されそうだからです。
1 主よ。
私はあなたに呼ばわります。
私の岩よ。
どうか私に耳を閉じないでください。
私に口をつぐまれて、私が、穴に下る者(力のない死人のこと)と同じにされないように。
2 私の願いの声を聞いてください。
私があなたに助けを叫び求めるとき。
私の手をあなたの聖所の奥(神殿の奥にある主の臨在の場所)に向けて上げるとき。
今のキリスト教会では祈りの時に手を合わせたり組んだり、目をつぶったりする人が多いようです。(教会の文化によっても違います)…が、「手をあわせなさい」とか「手を組なさい」「目をつぶりなさい」という教えは聖書にはありません。ダビデの時代の祈りはむしろ手を上げて主を求めている姿が多く記録されています。彼が手をあげて主に祈るのは、必死の叫びの現れです。、また、視線は神様を礼拝するための神殿があったエルサレムに向けるか、天に向けて祈る人が圧倒的に多かったです。でも、大切なのは手の形でも視線でもなく、「本気さ」です。
ダビデの力は自分の軍事力でも知恵でもありません。ただ、神様ご自身が彼の力でした。
彼の守りは自分の知恵でも、準備の周到さでもありません。神様ご自身が彼の盾でした。
この神様を心から求める時、神様は答えてくださいます。これは、ダビデだけではなく、僕らも同じです。
6 ほむべきかな。主。
まことに主は私の願いの声を聞かれた。
7 主は私の力、私の盾。
私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。
それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。
8 主は、彼らの力。
主は、その油そそがれた者(神様に選ばれた人の意味)の、救いのとりで。
ダビデは神様が敵に正しく報復してくださることを祈っています。自分が仕返しするのではありません。人間にはそれが許可されていません。人間に求められているのは敵を赦し祝福することです。
(新約聖書ルカ6.27-28)
あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。
あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。
しかし、神様だけが悪人に報復し正しく裁きをなさいます。「復讐はわたし(神様)のすることである。わたしが報いをする。」と聖書は何度も書いています。(新約聖書ローマ12.19、ヘブル10.30など多数)ダビデは神様が正しく判断して報復してくださることを願い、それを神様にゆだねています。
4 彼らのすることと、彼らの行なう悪にしたがって、彼らに報いてください。
その手のしわざにしたがって彼らに報い、その仕打ちに報復してください。
5 彼らは、主のなさることもその御手のわざをも悟らないので、主は、彼らを打ちこわし、建て直さない。
ここでの「悪者」とは口と心が違う人のことです。表面的には友好的なことを言うけどもウラでは悪を企む人のことです。
3 どうか、悪者どもや不法を行なう者どもといっしょに、私をかたづけないでください。
彼らは隣人と平和を語りながら、その心には悪があるのです。
今日も僕らの祈りが本心でありますように。口と心が一つでありますように。神様の前に正直に祈りますように。そして、生きて働いておられる神様のリアルな恵みと力を体験し感謝し心から賛美しますように。主は聞いておられます。
(新約聖書 1ヨハネ 5:14-15)
何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。

0 件のコメント:

コメントを投稿