詩篇4篇
人生に恐れはつきものです。人から批判されたり、攻撃されたりすることもついてもあります。それでも、神様は僕らを見放す事はありません。今日も神様は僕ら赦しきよめ、無罪宣言をしてくださっています。神様の愛と憐れみはなくなることがありません。この詩篇を作ったダビデは長年敵に命を狙われ逃亡生活を強いられていました。ストレスと緊張が続く生活ですが、彼は祈りの中で神様の愛と憐れみを確認して安心して眠ることができました。悪い状況の中でもなくならない安心は100パーセント神様からいただくものです。
(7-8)
あなたは喜びを私の心に下さいます。それは彼らに穀物と新しいぶどう酒が豊かにある時にもまさっています。
平安のうちに私は身を横たえすぐ眠りにつきます。主よただあなただけが安らかに私を住まわせてくださいます。
なぜ、追い詰められているのに平安なのか?それは神様との対話の中で愛され喜ばれていることを知るからです。目の前の状況は悪く、不安材料だらけです。でも、神様を呼び求め、祈る時に本当のことをがわかり安心します。まず、神様は神様を信頼する人を「聖徒」として、特別な愛と憐れみを与えてくださっています。敵が愛しているものは自分の栄光とか、自分の権力とか、消え去るものばかりです。ところが、神様に愛され、神様を愛し、神様の栄光を求めることは永遠になくならない最高に価値のあることです。
(1-3)
私が呼ぶとき答えてください。私の義なる神。追いつめられたときあなたは私を解き放ってくださいました。私をあわれみ私の祈りを聞いてください。
人の子たちよいつまで私の栄光を辱め空しいものを愛し偽りを慕い求めるのか。セラ
知れ。主はご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき主は聞いてくださる。
恋人同士や夫婦が愛し合い喜び合う関係にとどまるためには、相手との関係を壊す浮気心とか、相手から離れて行く原因となるものや、悲しませ怒らせることをやめ、捨てて行くことです。ダビデは神様に喜ばれ、神様からいつも御顔の光が注がれるために、自分の罪を告白し捨てるようにしていました。それは毎日毎晩の作業でです。
(4-5)
震えわななけ。罪を犯すな。心の中で語り床の上で静まれ。セラ
義のいけにえを献げ主に拠り頼め。
神様に喜ばれていることはどんな収穫や収入より嬉しいし安心できることです。他の人からとか、状況が良くなったから、ではなくて神様が喜んでくださっているから、です。
(6-8)
多くの者は言っています。「だれがわれわれに良い目を見させてくれるのか」と。主よどうかあなたの御顔の光を私たちの上に照らしてください。
あなたは喜びを私の心に下さいます。それは彼らに穀物と新しいぶどう酒が豊かにある時にもまさっています。
平安のうちに私は身を横たえすぐ眠りにつきます。主よただあなただけが安らかに私を住まわせてくださいます。
イエス様を信じる人は罪に定められることはありません。罪を告白する人は赦されます。(1ヨハネ1.8-9)罪をやめて神様に喜ばれている確信はどんなことよりも嬉しいことです。その喜びと平安は心の内側に満たされます。それを取り去ることができるものはありません。
今日も静まって神様と対話しましょう。神様は今日も僕らを愛しておられます。平安と喜びを与えようとしておられます。それを受け取らないようにしているのは僕らの罪とか、聖書の真実を知ろうとしない無知とかです。静まって神様の言葉を聞きましょう。静まって自分の内側にある不信仰や罪を告白して捨てましょう。「あなたは喜びを私の心に下さいます。それは彼らに穀物と新しいぶどう酒が豊かにある時にもまさっています。」ハレルヤ!
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