神様は罪に対して怒り、悲しみ、最後には正しい裁きをする方です。優しいだけの甘い神様ではありません。
歴史の中で神様に逆らう国を滅ぼしたことは何度も旧約聖書に書かれています。また、この世の終わりに神様に逆らう人たちを殺すことも預言されています。預言者イザヤは血だらけの服を来た人を見ます。それは罪人に対して正しい復讐をする神様の姿です。
1 「エドム(イスラエルの敵としていつも書かれています)から来る者、ボツラ(エドムの首都)から深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。
その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は。」「正義を語り、救うに力強い者、それがわたしだ。」
真っ赤な服を来ているこの人は誰?なぜ服は赤いの?という質問に、これは、罪人を怒って殺したときの返り血だと言います。石をくりぬいた大きな器にぶどうを入れて足で踏みつけてその汁が流れるように、人の血が流れ、自分の服が血だらけになるほど、神様の怒りと裁きはあると聖書はいいます。
ここで「わたし」と書かれているのは神様のことです。
2 「なぜ、あなたの着物は赤く、あなたの衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。」(…中略…)
3 わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。
4 わたしの心のうちに復讐の日があり、わたしの贖いの年が来たからだ。(…中略…)
6 わたしは、怒って国々の民を踏みつけ、憤って彼らを踏みつぶし、彼らの血のしたたりを地に流した。」
神様は怒る神様です。そして、この世の終わりには正しい裁きがあり、文字通り多くの人の血がイエス様によって流される日が来ると聖書は言います。(黙示録14.19-20、19章など) 神様の怒りと裁きは確実にあります。一方で聖書は神様の忍耐とあわれみを思い出すようにと言います。決して立派ではなく、何度も神様を裏切るようなイスラエル人のことを見放さず、見捨てないでいてくださったのは、神様のあわれみです。
7 私は、主の恵みと、主の奇しいみわざをほめ歌おう。
主が私たちに報いてくださったすべての事について、そのあわれみと、豊かな恵みによって報いてくださったイスラエルの家への豊かないつくしみについて。
8 主は仰せられた。
「まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ。」と。
こうして、主は彼らの救い主になられた。
9 彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。
その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。
イスラエル人たちは神様の子どもたちです。選び、祝福した、と神様は言われます。イスラエル人たちの苦しみは神様の苦しみです。その愛は、最後には彼らが受けるべき神様の怒りを身代わりに受けて死んでくださるほどです。彼らの罪をまるで自分の罪のように連帯し、神の正しい怒りと裁きを受けてくださったのがイエス様の愛です。
(ヨハネ 3:16-17)
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
(ローマ 5:8-9)
私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
神様の怒りと愛は両立しています。怒りは十字架の上に注がれ、イエス様は血だらけで裁かれ、死んでくださいました。神様の怒りは注がれました。そして、神様は愛してくださる方です。身代わりに死んでくださるくらいに一緒に苦しみ、僕らをかばい、忍耐し続けてくださいます。彼らの罪を、まるで自分の罪のように背負ってくださる方です。だのに、人間は神様を悲しませ裏切りつづけます。それほどまでに大きな恵みと憐れみを体験しながら、神様を裏切り悲しませます。
10 しかし、彼らは逆らい、主の聖なる御霊を痛ませたので、主は彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた。
僕ら人間の歴史はこの繰り返しです。神様は僕らを子どもとして造り、導いてくださっています。
だのに僕ら人間は神様を裏切ります。最初、神様が作られたエデンの園は最高の愛と恵みの世界でした。だのに人は裏切ります。自分から不幸を選びました。イスラエル人の歴史はいつもそうです。神様は良いものばかりを与えてくださいました。だのに彼らは神様を裏切ります。自分から不幸を選びました。そして、現代のクリスチャンも同じです。十字架の愛と赦しを知っています。だのに裏切ります。聖書は僕らに警告しています。
(ヘブル 10:26-31)
もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。(…中略…)まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。
私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする。」、また、「主がその民をさばかれる。」と言われる方を知っています。
生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。
今日も神様は僕らに語りかけておられます。今まで良くしてくださった神様のことを思い出すようにと呼びかけておられます。
あんなに良いことをしてくださったのに、忘れるのは僕らの問題です。思い出しましょう。イスラエル人たちが神様がしてくださったことを思い出すようにと預言者イザヤは呼びかけています。そして、僕らにも呼びかけています。離れていくのは僕らの問題です。神様は今日も呼びかけてくださっています。
11 そのとき、主の民は、いにしえのモーセの日を思い出した。
「羊の群れの牧者たちとともに、彼らを海から上らせた方は、どこにおられるのか。
その中に主の聖なる御霊を置かれた方は、どこにおられるのか。
12 その輝かしい御腕をモーセの右に進ませ、彼らの前で水を分け、永遠の名を成し、
13 荒野の中を行く馬のように、つまずくことなく彼らに深みの底を歩ませた方は、どこにおられるのか。
神様の愛と厳しさが僕らの心によみがえりますように。
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