2023年3月1日水曜日

創世記42.1-25

 創世記42.1-25

神様のご計画は実現します。神様のご計画は僕らに祝福と喜びと平安を与えるためのご計画です。(旧約聖書エレミヤ29.11) ヨセフと兄弟たちに起こるすべての苦しみは神様が彼らを祝福するためのプロセスでした。
ヨセフは17歳の時に神様から「兄たちが自分にひれ伏す」という夢を見せられます。今、彼は39歳になり、あれから22年たって、兄たちは食料を買うために総理大臣になったヨセフにひれ伏します。神様のご計画は実現しました。
5 こうして、イスラエルの息子たちは、穀物を買いに行く人々に交じって出かけた。カナンの地にききんがあったからである。
6 ときに、ヨセフはこの国の権力者であり、この国のすべての人々に穀物を売る者であった。ヨセフの兄弟たちは来て、顔を地につけて彼を伏し拝んだ。
7 ヨセフは兄弟たちを見て、それとわかったが、彼らに対して見知らぬ者のようにふるまい、荒々しいことばで彼らに言った。「あなたがたは、どこから来たのか。」すると彼らは答えた。「カナンの地から食糧を買いにまいりました。」
ヨセフはすぐに兄たちだとわかりましたが、自分がヨセフだとは明かしません。彼はエジプトの総理大臣としのて威厳のある衣装を着てメイクをし、しかも、エジプトのことばを話しています。彼らと兄弟たちの間には通訳がいました。(23節)
8 ヨセフには、兄弟たちだとわかったが、彼らにはヨセフだとはわからなかった。
兄弟は11人いるはずなのに、ひれ伏しているのは10人です。一番下の弟ベニヤミンがいません。(42章2‐3節)
彼らの状況を聞き出すためにヨセフは荒々しく答え、回し者だと疑います。父は生きているか、弟は生きているか彼らから聞き出すためでした。
9 ヨセフはかつて彼らについて見た夢を思い出して、彼らに言った。「あなたがたは間者(スパイ)だ。この国のすきをうかがいに来たのだろう。」
10 彼らは言った。「いいえ。あなたさま。しもべどもは食糧を買いにまいったのでございます。
11 私たちはみな、同じひとりの人の子で、私たちは正直者でございます。しもべどもは間者ではございません。」
12 ヨセフは彼らに言った。「いや。あなたがたは、この国のすきをうかがいにやって来たのだ。」
13 彼らは言った。「しもべどもは十二人の兄弟で、カナンの地にいるひとりの人の子でございます。末の弟は今、父といっしょにいますが、もうひとりはいなくなりました。」
ヨセフは弟ベニヤミンを確かめるまで自分をヨセフだと明かしません。
それで、1人を牢屋に入れて、9人に食料を持たせて帰し、ベニヤミンを連れてくるように命令します。
17 こうしてヨセフは彼らを三日間、監禁所にいっしょに入れておいた。
18 ヨセフは三日目に彼らに言った。「次のようにして、生きよ。私も神を恐れる者だから。
19 もし、あなたがたが正直者なら、あなたがたの兄弟のひとりを監禁所に監禁しておいて、あなたがたは飢えている家族に穀物を持って行くがよい。
20 そして、あなたがたの末の弟を私のところに連れて来なさい。そうすれば、あなたがたのことばがほんとうだということになり、あなたがたは死ぬことはない。」そこで彼らはそのようにした。
兄たちは生まれて初めて自分が束縛され、牢屋に監禁される苦しみと不安を初めて体験しました。そのとき、昔弟ヨセフにやったことを思い出します。弟を縛り、奴隷として売ったことがどんなにひどい罪だったか、どんなに残酷だったかを思い知ります。
21 彼らは互いに言った。「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ。」
22 ルベンが彼らに答えて言った。「私はあの子に罪を犯すなと言ったではないか。それなのにあなたがたは聞き入れなかった。だから今、彼の血の報いを受けるのだ。」
僕ら人間は苦しむことがないと罪を認めません。苦しむ時にはじめて自分が罪を犯して来たことを告白できます。苦しいことではあるけど、神様の恵みと祝福への道です。その時にはわかりませんが、罰ではなく、罪を認めて告白するための道でした。兄たちが自分たちの罪を認めているのを聞いて、ヨセフは泣きます。
23 彼らは、ヨセフが聞いていたとは知らなかった。彼と彼らの間には通訳者がいたからである。
24 ヨセフは彼らから離れて、泣いた。
ヨセフはだんだんと、兄たちが本当に悔い改めていることを知るようになります。神様はこの12人の兄弟たち全員を祝福しておられます。神様からの祝福の約束は聖書に何度も書かれています。ですが、祝福にたどりつくためには、自分の罪を認めて言い表すことがどうしても必要です。これは僕らも同じです。
神様は僕らの罪の大きさを教えるために苦しみの中に置かれることがあります。だれかに苦しめられた時、僕らもまた同じ罪を犯して来た人間だと知ります。罪のない人は一人もいない、と聖書はいいます。
神様は罪を認めず自分を正当化したままで祝福することはありません。
また、罪は時間で風化することも自然に忘れられていくこともありません。罪はただ、神様の前にそれを認めて言い表すことで赦されきよめられます。
神様は僕らの罪を赦したいと願っておられます。そのためにはただ、罪を認め告白することです。ヨセフの兄たちは苦しみを通して自分の罪の大きさに気づき、それを認めて告白します。彼らは確実に祝福と喜びと平安へと向かっています。聖書は言います。
(詩篇 32:1-5)
幸いなことよ。
そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
幸いなことよ。
主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。
私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。
(…中略…)私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。
私は申しました。
「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。
今日のみなさんの苦しみは何でしょうか。
苦しみを通して思い出す罪があったらちゃんと言葉にして謝りましょう。罪のない人はいません。自分は悪くない、という人はうそつきです。すべての人に罪があると聖書は言います。
(新約聖書 1ヨハネ 1:8)
もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
どんな罪も赦されきよめられます。
神様は僕らを苦しめるのではなく、きよめ、成長させようと願っておられます。
(新約聖書 1ヨハネ 1:9)
もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
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