マルコ15.16-32
イエス様は正しい人のために死んでくださったのではありません。自分を冒涜し笑う人たちのために祈り、死んでくださいました。聖書はイエス様の十字架の肉体的な痛みをあまり書いていません。それよりも、人々がバカにし、笑うことを強調して書いています。当時のムチ打ちの刑は全身の皮膚が裂け、顔も血だらけになり、場合によっては骨も露出してしまうほどだそうです。血だらけのイエス様を軍隊の前に立たせ、恥ずかしいユダヤ人の王様として見せものにして喜びます。これは聖書の実現でした。「打つ者に背中を任せ、ひげを抜く者に頬を任せ、侮辱されても、唾をかけられても、顔を隠さなかった。」と預言された通りになります。(イザヤ50.6)総督ピラトはわざわざ600人の全部隊の兵士を集めて苦しむイエス様で遊びます。王様っぽいパロディを楽しむためです。
(16-19)
16,兵士たちは、イエスを中庭に、すなわち、総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。
17,そして、イエスに紫の衣を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、
18,それから、「ユダヤ人の王様、万歳」と叫んで敬礼し始めた。
19,また、葦の棒でイエスの頭をたたき、唾をかけ、ひざまずいて拝んだ。
王冠に見立てたイバラの冠で、そのトゲが頭皮に刺さって苦しむのを楽しむように、彼らは棒で頭を叩き続けます。そして唾を吐くことは究極の冒涜です。そして、王様のようにひざまづきます。イエス様はそのように冒涜され笑われた後で、「普通の犯罪人」の一人として殺されます。「彼らは、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右に、一人は左に、十字架につけた。」(27)とあります。罪状書きに「ユダヤ人の王」と書いて十字架につけました。(26)これは、こいつは自称ユダヤ人の王だけど、とるに足りない惨めな普通の犯罪者、強盗と何も変わらないただの罪人、とアピールするかのようです。実はこの全てが聖書の実現でした。「彼は…背いた者たちとともに数えられた」と言われた通りになります。(イザヤ53.12)十字架につけられた後も嘲笑は続きます。惨めで恥ずかしいイエス様の姿に律法学者や祭司長たちも、通りがかかりの人たちも大喜びです。
(20-32)
29,通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おい、神殿を壊して三日で建てる人よ。
30,十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」
31,同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを嘲って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。
32,キリスト、イスラエルの王に、今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう。」また、一緒に十字架につけられていた者たちもイエスをののしった。
「主の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない。(…中略…)在留異国人でも、この国に生まれた者でも、御名を冒涜するなら、殺される。」と聖書は言います(レビ24.16)。彼らは神の子であるイエス様を冒涜し、苦しめ、笑い続けました。十字架に釘で刺して吊るした後でも「十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」「今、十字架から降りてもらおう。」と笑います。イエス様は十字架から降りることもできたし、即座にこの人たちを殺すことができました。でも、これが神様の憐れみのご計画でした。「彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。」(イザヤ53.12)と預言されていた通りです。イエス様は苦しみながら祈ります。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23.34)
イエス様は正しい人のために死んでくださったのではありません。良い人、親切な人のために犠牲になってくださったのではありません。自分を冒涜する人たちのために祈り、死んでくださいました。「キリストは…不敬虔な者のために死んでくださいました。」(ローマ5.6)ここに愛があります。イエス様の肉体的な痛みより、人々がイエス様を笑い冒涜する姿を聖書は強調して伝えています。それは、そのような冒涜者たちを愛し赦してくださる神様の憐れみを伝えるためです。神様の愛は大きすぎます。神様の愛の対象外の人はいません。大きすぎます。もう一度感謝しましょう。全ての人がこの福音を知り、赦され、救われ、裁かれますように。
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