マルコ16.9-20メッセージ
生きておられる
イエス様からの力といのち
●イントロ。復活を信じることは希望。
サルーキー 復活進行
復活 それは一度ダメでも二度目があると言うこと
復活 それはダメなように見えてもその先があると言うこと
患難が忍耐を生み出し
忍耐が強い心を生み出し
その人は希望に出会うことができるだろう
反対に、イエス様がお叱りになるのは、復活を信じないことです。
10,マリアは、イエスと一緒にいた人たちが嘆き悲しんで泣いているところに行って、そのことを知らせた。
11,彼らは、イエスが生きていて彼女にご自分を現された、と聞いても信じなかった。
13,その二人も、ほかの人たちのところへ行って知らせたが、彼らはその話も信じなかった。
14,その後イエスは、十一人が食卓に着いているところに現れ、彼らの不信仰と頑なな心をお責めになった。よみがえられたイエスを見た人たちの言うことを、彼らが信じなかったからである。
復活は希望です。一度ダメでも2度目があること。ダメなように見えてその先があること。行き止まりでもその先があるということ。挫折を味わって、そこから起き上がること。復活を信じることは希望です。
今日のメッセージみなさんががっかりしていることの向こうにある回復、挫折や悲しみの向こうにある喜びを示すものでありますように。もしも、その悲しみや苦しみがみなさんの頑固さとか、イエス様を信じない不信仰から来るものなら、今日のメッセージの中でそれも示してくださいますように。
復活されたイエス様が今私たちと一緒にいてくださることが、机上の空論ではなく、絵に描いた餅ではなく、確かなこととされますように。
20,弟子たちは出て行って、いたるところで福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた。〕
ーーーーーー
まず、9節からは( )がついていて、9節の欄外注を読む。
コピーのない時代に、聖書は手書きで写して生きました。今残っている新約の写本は1万以上。ある写本には書いてある。でもそれが信頼できるかどうかわからない。重要な写本には欠けている。書かれてる写本もある。どっちが原文に近い?という問題があります。
マルコが書いた原本はない。どれが原本に近いかはわからないけど、これはマルコ本人は書いていない可能性がある。
まず、マルコが普段使わない単語や文体が多い。また、重複している情報も多いので、マルコ以外の人が後から補足説明として書いた可能性は大きい。そしたら神様のみことば、正典とは言えない。参考書として読む。
でも、同じ内容が他の福音書にも同じことが書かれていたら、それは事実。でも、他の福音書にないのなら、あくまで参考書として読む。
その姿勢でメッセージをします。つまり、他の福音書との整合性の中で読む、ということです。なので、この箇所を参考にしつつ、いろんな箇所からイエス様が語ってくださるように願っています。
●信じない人の悲しみ
10節にイエスと一緒にいた人たちが嘆き悲しんで泣いているところに行ったと書いてあります。
人が死ぬと悲しいです。イエス様、生きているからこそ、素晴らしいことを教えてくださったし、たくさんの奇跡をしてくださったイエス様についていった。でももう死んでしまったんだから、全てが終わったんだと言う絶望です。死は全ての終わりだと思います。
マリアもそう思いました。マリアはイエス様に人生を変えてもらった人です。
9,〔さて、週の初めの日の朝早く、よみがえったイエスは、最初にマグダラのマリアにご自分を現された。彼女は、かつて七つの悪霊をイエスに追い出してもらった人である。
悪霊にとりつかれるとは、自分の人格を乗っ取られ、完全にコントロールされた状態。
悪霊に操られた人。しかも、7つ。完全数。もう自分なのに自分ではない。やりたくないことをやってきた女。このマリヤも苦しんだ人。イエス様によって解放され、本来の自分に戻った人。本当に感謝してもしきれないです。
もう、あの悪霊の世界には戻りたくない。このイエス様一緒にいれば大丈夫、悪霊よりも強い方、思ってずっとついてきた。エルサレムにきたらイエス様はホサナ、と歓迎された。私のイエス様は素晴らしい、こんなに歓迎されている、と思ったら雲行きが怪しくなって、殺せ殺せ、に変わってしまった。悪霊よりも強いイエス様ならきっと解放される、イエス様なら、きっとこの拷問からも脱出する。私はイエス様を信じる、と思ってここまでついてきた。期待していた。イエス様ならあ自分を殺そうとしている敵をやっつける、と思っていたけど、エルサレムにきて見たら、あれよあれよと言う間に死刑が確定し、すぐに十字架を担がされ、死刑場に行って、本当に死んでしまった。
自分を救ってくれた大事な人が目の前で死んでしまった、という衝撃。突然、取り去られた、しかも、葬儀もしていない状況。遺体もまだちゃんと処理していない。あの傷だらけの鞭で皮膚がめくれている、釘で手足が咲かれ、脇腹から槍で刺され血得る。顔も鞭で損なわれている、その遺体をせめてちゃんと、ユダヤのしきたりに沿って処理したかった。マリアは泣きながら準備をしました。
1,さて、安息日が終わったので、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。
2,そして、週の初めの日の早朝、日が昇ったころ、墓に行った。
ところが、墓の大きな石の蓋は空いていて、遺体がなくなっていました。
そこで、マリアはイエス様と会います。そのであった様子は、ヨハネの福音書が詳しいので、ヨハネの福音書24章15節を一緒に読みたいと思います。
ヨハネ 20:15-18
15イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」
16,イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。
(…中略…)18,マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。
信じない人は悲しむ。マリアも最初は泣いていました。最初、イエス様はなぜ泣いているのですか?と聞きます。
当たり前ですが、答えはイエス様が死んでしまったからです。
そして主イエスはさらに核心を突く問いを語っておられます。「だれを捜しているのか」。
マリヤはイエス様を探しているのは当然です。前後しますが、御使いもマリヤに同じ質問をします。
ルカ 24:5
「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。
イエス様も、「だれを捜しているのか」
それは、あなたは墓の中に置かれている遺体をなぜ探すのか?私は生きている、あなたは捜すべきものを間違えている、ということです。マリヤは自分と話しているのがイエス様だとわかって、急いで弟子たちに知らせに行きました。ところが、弟子たちは信じません。
10,マリアは、イエスと一緒にいた人たちが嘆き悲しんで泣いているところに行って、そのことを知らせた。
11,彼らは、イエスが生きていて彼女にご自分を現された、と聞いても信じなかった。
ルカ 24:11
ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。
使徒たちはたわごと、と言いました。馬鹿馬鹿しい話、ふざけた話、と言う意味です。
復活は起こらない。死んだ人は蘇らない、もう無理だ、と言う決めつけです。決めつけは悲しみをうみます。
病気の人の癒しも、一緒にいてくださったことも、数々の奇跡も、イエス様が生きていた時だけの話であって、今もう死んでしまったら、何もかも思って終わってしまったんだというのが弟子たちの悲しみですです
私たちの信仰の根本に関わる大事なことが示されています。教会によってはイエス様の十字架で苦しむキリスト像が礼拝室にあります。
あの苦しむキリスト像は十字架の苦しみを思いださせてくれて、すごく良いと思うし、そのような受難の姿を絵にしたり映画にしたりすることは2000年のキリスト教会の歴史の中で用いられてきました。でも、それだけで福音の半分です。福音とは復活です。あの苦しむ姿のまま固まっているキリストでは終わらない。苦しんでいるキリストの十字架の姿だけで終わるなら、聖書がいうように「なぜ生きている方を死人の中で探すのですか?」と言われます。
なぜ、もう動けなくなって固まってしまったように、墓の中に置かれている主イエスを捜し求めるのですか?
苦しみと犠牲の死で終わったイエス様だけを探すなら、僕らの信仰も命も固まります。でも、復活して生きている方を求めるなら、僕らの命も生きかえります。どんなに苦しいことがあっても、行き止まりがあっても、僕らが求め、交わっているイエス様は死んで復活された、今生きているしかも、全ての権威を持っているイエス様です。
みなさんの信仰は過去のイエス様でしょうか。
2000年前に終わってしまった死んでしまったイエス様への信仰か?死んだ人の教えにしがみついているのか?
それとも、2023年の今、生きていて、力をもち、命を持っている方と交わっている信仰か?
復活を信じないのは不信仰でガンコす。イエス様はそれを責めます。
14,その後イエスは、十一人が食卓に着いているところに現れ、彼らの不信仰と頑なな心をお責めになった。よみがえられたイエスを見た人たちの言うことを、彼らが信じなかったからである。
彼らの不信仰と頑なな心をお責めになった。
どうして、信じないのか、こんなに証言しているのに。
諦めて、もう終わった、と思っているいることをお叱りになった。責めた。
もしも、僕らも、こうなったら終わりだ、と決めつけているならまさに、不信仰と頑なな心です。
イエス様は生きています、終わりはないし、絶望はない、どんなに終わったかに見えても、死んでも復活する、と言うのが福音です。
この地上の人生で願った通りにならなくても、苦しんで死んで行くだけでも、それでも復活があります。復活はイエス様だけではなく、信じる人全てが経験することです。
1コリント 15:20
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
サルーキーの言う通りです。
復活 それは一度ダメでも二度目があると言うこと
復活 それはダメなように見えてもその先があると言うこと
復活は希望。ダメでも2度目があること。終わったように見えてその先があること。行き止まりでもその先があるということ。挫折を味わって、そこから起き上がること。挫折や悲しみの向こうにある喜び、死の向こうにある喜びを示すものが復活を信じることです。
●信じる人の力といのち
その文脈つまり、イエスが生きている、私が生きている、私が一緒だ、と言う流れの中で宣教を命令します。
15,それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。
この福音を伝える、と言うのが具体的には復活を伝える、と言うことす。
使徒の働きを読むと、イエス様は生きている、復活して生きている、この方こそ救い主で、この方以外には救いはありません、と伝えています。
16,信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。
救いの条件がバプテスマ、に読めます。でも、聖書全体は信じる、ということが義認。救い。
そしてバプテスマはとは、一体になる、浸される、という意味。生きているイエス様と浸されるのがバプテスマです。これはイエス様が死んで復活して今も生きている、その生きているイエス様と繋がることです。
バプテスマを受けた人は、もう一人ではない。生きているイエス様が、世界の王が一緒にいてくださる。その人と繋がって伝える。
死んで、固まってしまった人と繋がるのでなく生きている人とです。死より上の方です、罪より上の方です。全てを支配する方です。この方が生きています。信じる人は救われます、というのが福音。
今まで絶対無理だ、と思っていたことが破られたのが復活です。誰もが諦める場面で諦めないのが復活です。もう自分の人生は終わった、こうなったら終わりだ、どうせ神様から呪われているんだ、と言うところが回復して救い出してくださるのが復活です。
15,それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。
こうなったらおしまいだ、という僕らの台本を上回る素晴らしい福音を伝えなさい。どんな罪も赦される、と言う福音を伝えなさい。
死んだらおしまいだ、という考えよりも上を行く、罪を冒したら罰が当たるんだ、神に裁かれるんだ、という話の上を行くイエス様が来られた、十字架で処刑を受け、しかも、今生きて僕らを招いておられる。本当に今生きている。イエス様が生きておられるしるしが有ります。
17,信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、
18,その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます。」
イエス様にはできます。わざわざ毒を飲む必要ないし、蛇を掴む必要はない。これは教理ではない。こうしなさい、ということではなく、生きておられるイエス様は本当に新しい御霊の言葉を与えてくださるし、イエス様が悪霊を追い出してくださるの事実。イエス様は病人を癒してくださるのは事実だし、その実例は使徒の働きにたくさんあります。僕らも祈ります。これが、生きておられるイエス様とバプテスマされ繋がった僕らの祈りです。だから、僕らも祈ります。癒されるように、悪霊から解放されるように。生きておられるイエス様の名で祈ります。繋がって祈る。
古典を学んでありがたくなっているのではなく、今、生きている方との交わりをするのがクリスチャンです。もしも、僕らの信仰が死んだ人の教えなら、意味がない。
・福音を伝えるのはイエス様と一緒。
15,それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。
弟子たちは生きているイエス様と一緒にこの福音を伝えたし、今僕らがしていることも同じです。僕が今話していますが、生きておられるイエス様が一緒に働いてくださり、語ってくださっています。
20,弟子たちは出て行って、いたるところで福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた。〕
一番最初にイエス様が生きている、と言う福音を託されたのはだれ?男の弟子たちではなく、イエス様が生きてる、って最初に伝え始めたのは、女性であるマグダラのマリアです。
この当時、女性は証人とされなかった。法廷で女性は証言はできななかった時代です。。しかも、このマリヤ、「よみがえったイエスは、最初にマグダラのマリアにご自分を現された。彼女は、かつて七つの悪霊をイエスに追い出してもらった人である。」とあります。9
女性だ、と言うことだけで証言が採用されないのに、昔、おかしくなってた女性です。イエス様が生きていると言っても、またおかしくなったのか?と思われたかもしれません。「使徒たちにはこの話はたわごとと思われた」とルカの福音書にあります。
イエス様は一番はじめに、一番社会的信用がない、人が話を聞いてくれなさそうな人を選んで復活したことをまずは弟子たちに伝えるように任されました。
イエス様はいつも僕ら人間に大事な情報を任される方です。素質があるか、信用があるか、ふさわしいかどうか、関係なく、神様が選んだ人には、神様が一緒にいて、力を与え、命を与え、その役目をさせてくださいます。今、僕が話しているのも、イエス様の力、命です。僕ではないです。
20,弟子たちは出て行って、いたるところで福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた。〕
いつも祝祷で祈る聖書の箇所は、神様の願いです。
エペソ 1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
イエス様は生きています。皆さんは誰を探していますか?死んでしまった、固まってしまったイエス様ですか?それとも今、生きて、力があるイエス様ですか?どんなことがあってもなくならない希望を与えてくださるイエス様です。
イエス様は今、生きています。生きておられるイエス様が僕らに言葉を与え、力を与えます。生きているイエス様が命と希望を与えます。生きているイエス様が愛を与えます。イエス様が信仰を与えます。イエス様が賛美を与えます。イエス様が全てです。
復活を信じることは希望。こうなったら終わりだ、もうダメだ、ということはありません。
復活 それは一度ダメでも二度目があると言うこと
復活 それはダメなように見えてもその先があると言うこと
考えてみましょう。
諦めていること、こうなったら終わりだと決めつけていることはありますか?
今日、イエス様があなたになんと語りかけておられるか考えて見ましょう。
0 件のコメント:
コメントを投稿