2023年5月31日水曜日

ヨシュア7章

 ヨシュア7章


世界は神様によって作られました。本来世界はエデンの園のように、良いもので満ちていました。

人間は神様を愛し、感謝し、賛美し、神様と一緒に生きるように作られていました。ところが、人間は罪を選び、神様のご臨在を偽物にすり替えるために偶像を作り、神様を崇めず、賛美せず、その代わりに偶像を崇め、仕えるようになりました。神様はそのように罪を愛し偶像を愛する人を滅ぼし尽くすと聖書は伝えています。最終的には、神様はこの世界全てをさばき、呪われた物を聖絶します。徹底的に破壊したりして、回復することができない形にされます。


カナンの土地の先住民が神様に滅ぼされていくことがヨシュア記に書かれています。これは神様が徹底的に罪を嫌い、それを滅ぼし聖なる土地に作り替えることです。この世の終わりには神様が世界規模でそれをなさいます。世界はさばかれ、罪は滅ぼされ、完全にイエス様が支配なさる世界が回復します。ヨシュア記で敵が滅ぼされていく姿は最終的にイエス様が罪ある世界を滅ぼしていくことの第一段階だし、将来起こることの予形です



(出エジプト記22章20節)

ただ主ひとりのほかに、ほかの神々にいけにえをささげる者は、聖絶しなければならない。



神様はまず最初にイスラエルを選び、神様の聖なる民、宝の民、愛する民とされました。神様は言われます。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。」(申命7:6 )


神様は約束通りにイスラエルに土地を与え、その土地は聖なる地となります。プロセスとして、汚れた人も土地も街も滅ぼし尽くすように命じます。その土地が混じり気なく神様に従う新しい場所になるためです。そのことを聖書は「聖絶」と言います。もしも、イスラエルが罪を好んで神様が滅ぼされる汚れたものを欲しがって手にするなら、イスラエルも一緒に滅ぼされてしまいます。



(ヨシュア6章18)

あなたがたは聖絶の物には手を出すな。あなたがた自身が聖絶されないようにするため、すなわち、聖絶の物の一部を取ってイスラエルの宿営を聖絶の物とし、これにわざわいをもたらさないようにするためである。



神様は罪もその人も聖絶します。ところが、アカンという人が滅ぼされる聖絶のものを自分のものとしました。神様が滅ぼし尽くすものを隠し持った時から、イスラエル全体も神様の怒りの対象となってしまい、自分たちも滅ぼされるものになってしまいました。



(1)

しかし、イスラエルの子らは聖絶の物のことで主の信頼を裏切った。ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶の物の一部を取った。それで、主の怒りがイスラエルの子らに向かって燃え上がった。 



イスラエルはその土地の人たちに攻撃され、殺されはじめます。神様から離れた民は弱くなり敵の餌食とされていきます。



(4-6)

4 そこで民のうち、およそ三千人がそこに上って行ったが、彼らはアイの人々の前から逃げた。 

5 アイの人々は彼らの中の三十六人を打ち殺し、彼らを門の前からシェバリムまで追って、下り坂で彼らを討った。民の心は萎え、水のようになった。 

6 ヨシュアは衣を引き裂き、イスラエルの長老たちとともに、主の箱の前で夕方まで地にひれ伏し、自分たちの頭にちりをかぶった。 



ヨシュアはまさかイスラエルの中に聖絶のものを奪っている人がいるとは思わなかったようです。神様は敵から攻撃されるようになった原因の罪を教えてくださいました。



(10-12)

10,主はヨシュアに告げられた。「立て。なぜ、あなたはひれ伏しているのか。

11,イスラエルは罪ある者となった。彼らはわたしが命じたわたしの契約を破った。聖絶の物の一部を取り、盗み、欺いて、それを自分のものの中に入れることまでした。

12,だから、イスラエルの子らは敵の前に立つことができず、敵の前に背を見せたのだ。彼らが聖絶の者となったからである。あなたがたの中から、その聖絶の物を滅ぼし尽くしてしまわないなら、わたしはもはやあなたがたとともにはいない。



神様は聖絶のものをイスラエルの中から取り除くように命じます。



(13)

13,立て。民を聖別せよ。そしてこう言え。あなたがたは、明日のために自らを聖別しなさい。イスラエルの神、主がこう告げられるからだ。『イスラエルよ、あなたの中に聖絶の物がある。あなたがたがその聖絶の物を、あなたがたの中から取り除くまでは、敵の前に立つことができない。



「聖別」とは完全に神様のものとなることです。罪も半分、神様半分ではなく、神様専用の自分としてとり分けなさい、と命じます。それが聖別です。ヨシュアは祈りながら、くじで、誰が罪を冒したのか調べます。すると、アカンが盗んだことがわかり、彼もその持ち物も家族も切り離し、処刑します。アカン一家は神様から聖絶されました。



(25)

25,ヨシュアは言った。「なぜ、おまえは私たちにわざわいをもたらしたのか。主は今日、おまえにわざわいをもたらされる。」全イスラエルは彼を石で打ち殺し、彼の所有物を火で焼き、それらに石を投げつけた。

26,人々はアカンの上に石くれの大きな山を積み上げた。今日もそのままである。主は燃える怒りを収められた。



神様は罪を滅ぼし尽くします。アカンと家族が聖絶されたと同じように、罪のある僕ら全員は神様に滅ぼし尽くされるはずでした。聖なる神様の前には誰も立つことができません。そんな僕らを憐れみ、イエス様は神様の怒りと呪いを引き受け、罪ある者として滅ぼし尽くされるかのように、神に捨てられ、人に捨てられ、十字架で殺されました。神の怒りを受けたのは僕らではなく身代わりのイエス様です。僕らはイエス様が受けてくださった十字架の呪いよって無罪放免とされ、聖なる人、と呼ばれるようになりました。これは神様の憐れみです。


だから、聖なる者にふさわしく、罪を捨てなさい、と聖書は言います。聖なるものとされたのに、また罪を取り入れ、それを手放さないなら一緒になって滅ぼされてしまいます。


アカンとその家族が殺されたことは、神様のきよさと罪に対する怒りを表しています。

イエス様の十字架もまた、神様の罪に対する怒りを表しています。


もし、密かに隠している罪があるなら認めましょう。口に出し実際にそれを手放しましょう。


神様は罪を放置することができない方です。毎日罪は出てしまいます。手放し続けましょう。

悔い改める人には神様の恵みがあります。

神様へのいけにえは悔いた心です。今日、認めて手放しましょう。罪は自分だけでなく、神様の家族全体を汚します。

作りたてのジャムを滅菌したビンに入れて保存すると、1年以上長持ちします。でも、ビンを洗わずにジャムを入れれば、そこから腐ります。今日も罪を告白し、捨てましょう。


(詩篇 51:17 )

神へのいけにえは、砕かれたたましい。

砕かれた、悔いた心。

神よ。

あなたは、それをさげすまれません。





2023年5月30日火曜日

ヨシュア6章

 ヨシュア6章


 イエス様は、「主の御名が聖なるものとされますように」と祈るようにおっしゃいました。(マタイ6章)神様の力、神様の存在、神様の偉大さに人間的な手垢(人の力とか、手柄とか、人の栄光とか)を付けないで、100%神様の栄光だけになるようにとの意味です。これが神様の願いです。僕らの本性はいつも人間的な作戦、人の力、手柄、栄光ばかり求めがちだからです。


神様はヨシュアとイスラエルにエリコの町を渡す、と断言されました。まだ渡してないのに「あなたの手に渡した。」と完了形で言われます。(2)神様の言われたことはもう実現したのと同じです。そして、その方法は100パーセント神様の力で与えられることを徹底的に知って、神様の名と偉大さだけが現されるための方法でした。神様はヨシュアに毎日神様が与えてくださることを覚えてその町を一周しなさい、と命令します。軍事的な作戦をあれこれ考えることではありませんでした。



(2-5)

2 主はヨシュアに告げられた。「見よ、わたしはエリコとその王、勇士たちをあなたの手に渡した。 

3 あなたがた戦士はみな町の周りを回れ。町の周囲を一周せよ。六日間そのようにせよ。 

4 七人の祭司たちは七つの雄羊の角笛を手にして、箱の前を進め。七日目には、あなたがたは七回、町の周りを回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らせ。 

5 祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたら、民はみな大声でときの声をあげよ。そうすれば町の城壁は崩れ落ちる。民はそれぞれ、まっすぐに攻め上れ。」 



100パーセント神様の力です。100パーセント神様が与えてくださることが徹底してわかるためには一週間必要でした。毎日ただ、祈りつつ、角笛を吹いてその町を一周します。彼らは契約の箱を担いで町を回るように言われています。契約の箱には神様が与えて下さった10の教えが入っています。その一番最初は「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」と書かれています。(出エジプト20.2-3)今までも、これからも導いてくださるのは主のみです。他にはありません。契約の箱は主ご自身がそこにいることの表れです。聖書は主の箱のことを「主の前」と言い換えます。(8)主の箱は主がおられることの表れです。



(7-9)

7 そして民に言った。「進んで行き、町の周りを回りなさい。武装した者たちは主の箱の前を進みなさい。」 

8 ヨシュアが民にそう言ったとき、七人の祭司たちは、七つの雄羊の角笛を持って主の前を進み、角笛を吹き鳴らした。主の契約の箱はそのうしろを進み、 

9 武装した者たちは、角笛を吹き鳴らす祭司たちの前を行き、しんがりは角笛を吹き鳴らしながら箱のうしろを進んだ。 



聖書の中で角笛の音が鳴り響くときはいつも「ここに主がおられる」ということを表していました。それを六日間繰り返します。1日で終わらせた方が効率的なのに、とせっかちな僕らは思いそうです。が、「これは神様がなさることだ。自分たちの作戦や力ではない」ということが浸透するまでには一週間繰り返す必要がありました。すぐ動くのでなく、静まり、あれこれ言わず、神様を覚え、神様の御名を信頼するになるまで、人間には時間が必要です。



(10-14)

10 ヨシュアは民に命じた。「あなたがたはときの声をあげてはならない。声を聞かせてはならない。口からことばを出してはならない。『ときの声をあげよ』と私が言うその日に、ときの声をあげよ。」 

11 こうして主の箱は町の周りを回り、その周囲を一周した。彼らは宿営に帰り、宿営で夜を過ごした。 

12 翌朝ヨシュアは早く起き、祭司たちは主の箱を担いだ。 

13 七人の祭司たちは、七つの雄羊の角笛を持って主の箱の前を進み、角笛を吹き鳴らした。武装した者たちは、彼らの先頭に立って行き、しんがりは角笛を吹き鳴らしながら主の箱のうしろを進んだ。 

14 彼らは二日目も町の周りを一周回り、宿営に帰った。六日間そのようにした。 



主の前にいる時間をイエス様は「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」とっしゃいます。(ルカ10.42)あれこれと心配してワーワーいって動くより、主の前に静まり、ただ主だけを覚える時間は僕らの最優先事項です。全ては主が成し遂げてくださいます。主がなさることに僕らは後で参加させていただけます。神様は神様の力だけで7日目にエリコの頑丈な城壁は崩れました。その後でイスラエルはこの町を滅ぼし尽くすことをしました。僕らは神様のなさることに参加させていただく、それだけです。



(16-17)

16 七周目に祭司たちが角笛を吹き鳴らしたとき、ヨシュアは民に言った。「ときの声をあげよ。主がこの町をあなたがたに与えてくださったからだ。 

17 この町とその中にあるすべてのものは主のために聖絶せよ。


(20-21)

20 民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。角笛の音を聞いて民が大声でときの声をあげると、城壁は崩れ落ちた。そこで民はそれぞれ、まっすぐに攻め上り、その町を攻め取り、 

21 町のものをすべて、男も女も若者も年寄りも、また牛、羊、ろばも剣の刃で聖絶した。 



全ては主の御業です。今日も主の名だけが聖とされるように祈りましょう。心配なことは神様にお委ねし、動き回ることを一度やめ、神様に明け渡し、信頼できるようになるまで祈りましょう。すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ11.36)

2023年5月29日月曜日

ヨシュア5.13-15

 ヨシュア5.13-15


僕らは何かをするとき、ぐるぐると考えを廻らせます。あの人は協力してくれるか、こっちの人はどう思うか、どちらが損か得か、どうすれば正解か、などなど想像するだけで疲れます。ヨシュアは神様が与えてくださる町エリコを占領する、と言う大変な任務がありました。神様が与えてくださるのは決定です。でも、実際に戦うのは自分です。リーダーとしての緊張や重圧はあったと思います。どのようにしようか、と考えているときに突然ある人が剣を抜いて自分の前に現れました。相手は剣を抜いています。臨戦体制です。緊張の上にさらに緊張が走ります。ヨシュアはとっさに敵か?味方か?と問います。


13

ヨシュアがエリコにいたとき、目を上げて見ると、一人の人が抜き身の剣を手に持って彼の前方に立っていた。ヨシュアは彼のところへ歩み寄って言った。「あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか。」 


その人は「わたしは主の軍の将」といいます。ヨシュアはとっさに平伏しました。目の前に現れた人が本当の将軍でした。自分ではありませんでした。ヨシュアはひれ伏して「何をこのしもべに告げられるのですか。」と聞きます。ヨシュアはもう一度自分はリーダーではなく神様の前では「しもべ」「奴隷」であることを自覚します。多くの註解者たちはこの人を天使ではなくイエス様ご自身ではないか、と解説します。


(14)

彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」ヨシュアは顔を地に付けて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか。」 

主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足の履き物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる場所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。 


ヨシュアは将軍ではありませんでした。彼は神様の前ではしもべであるべきでした。その人が言ったことは「あなたの足の履き物を脱げ。」です理由は「あなたの立っている所は聖なる場所である。」からです。つまり、神様の前にいるから、その汚い履き物を脱げ、と言うことです。ヨシュアはひれ伏します。さらに相手は靴を脱げと言います。その意味は、自分の今までの経験や業績やそのような物を全て放棄せよと言う意味です。靴がなければ戦えません。しかし、神様の前では自分の武装を完全に解除せよ、と言う意味がありました。また、聖なる神様の前では自分が何をした、どんな力がある、どんな作戦があるか、そのような自分の権利や考えや立場を全て捨てよ、と言う意味です。


聖なる神様の前に近づくときに、僕らは汚れた自分の作戦や罪の混じった経験を捨てる必要があります。モーセも指導者として任命されるときに同じように神様に言われました。(出エジプト3.5)汚い靴を履いたままでは、聖なる使命の地には入れません。


「そのままでいいよ」と言う神様ではありません。「そのままでは神様に近づけない」とおっしゃる神様です。汚れた靴を脱げ、とおっしゃる神様です。僕らはみんな汚れがあります。罪があります。高ぶりがあり、神様より自分の作戦で何かをなそうとしがちです。そんな僕らは聖なる血で洗われなければなりません。イエス様だけが僕らの罪を洗いきよめてくださる唯一のお方です。イエス様の十字架の犠牲がなければ神様に近づくことはできないし、神様の聖なる働きをすることはできません。


エリコと言う聖なる土地を与えてくださるのは神様です。その前に神様は罪と呪いを過ぎ越すために身代わりに羊が殺されたことを思い出さてくださました。(ヨシュア5.10)主の働きに参加する第一歩は僕らが主を恐れ、主の前に自分を捨て、明け渡すことです。殺された子羊イエス様によってだけ僕らは洗われました。これからは自分の計算、計画、経験でなく(3Kと言うそうです)100パーセント自分を捨てて、神様ご自身の御霊によって教えられ、従い、用いられます。

今日も平伏しましょう。汚れた靴は脱ぎ捨てましょう。自分の計算や計画は手放しましょう。神様こそが将軍であり全てです。ハレルヤ!

2023年5月25日木曜日

ヨシュア2章

 ヨシュア2章


町ごと人々を皆殺しにしてしまう、しかも神様がそれをする、と言う箇所が旧約聖書にたくさんあって、最初は「ん?」「神様って愛と赦しじゃなかったの?」と思いました。ところが、聖書は一貫して罪人もその町も呪われ消される、と伝えます。

イスラエルの民が、カナンの地に侵入するに当たって、先住民を「聖絶」するように命じられています。

「聖絶」という言葉は神の御前にのろわれたものを、絶滅したり徹底的に破壊して再び回復することができない形で主にささげることです。


最終的に、この世の終わりには神様が全世界の人をさばき、祝福される側と聖絶される側に分けます。後者は徹底的に破壊され、回復できない形にされます。その最後の聖絶はイエス様によって行われます。カナンの先住民が神様に滅ぼされていくのは、最終的な神様のさばきの予型です。


神様はエリコの町を聖絶するとおっしゃいました。イスラエルのリーダーヨシュアは2人のスパイをエリコに送ります。スパイは遊女の家に隠れますが、すぐにエリコの王に追われます。その時に、遊女ラハブは命をかけて2人をかくまい、逃がしました。彼女がイスラエル人をかくまったことは命懸けです。バレたらラハブも死刑です。それでも、彼女は神様の側につきました。命の危険があってもイスラエルの神様に付き、スパイをかくまい、本当の神様の側につき従います。それは神様こそ本当に世界を裁き滅ぼす方だと恐れ信じたからです。


(3-6)

3 それで、エリコの王はラハブのところに人を遣わして言った。「おまえのところに来て、おまえの家に入った者たちを出せ。その者たちは、この地のすべてを探ろうとしてやって来たのだから。」 

4 ところが、彼女はその二人をかくまって言った。「そうです。その人たちは私のところに来ました。でも、どこから来たのか、私は知りません。 

5 暗くなって門が閉じられるころ、その人たちは出て行きました。どこへ行ったのか、私は知りません。急いで彼らを追ってごらんなさい。追いつけるかもしれません。」 

6 彼女は二人を屋上へ上がらせ、屋上に積んであった亜麻の茎の中におおい隠していた。 



彼女は2人の前で神様を恐れ信じていることを告白します。神様が罪人を聖絶してしまうことを知り、今までエジプトやアモリ人もさばかれたことが本当だと知って恐れていること、だから自分は命をかけてイスラエルの神様の側につきたいこと、救ってほしいことを伝えます。


(9-13)

9 彼らに言った。「主がこの地をあなたがたに与えておられること、私たちがあなたがたに対する恐怖に襲われていること、そして、この地の住民がみな、あなたがたのために震えおののいていることを、私はよく知っています。 

10 あなたがたがエジプトから出て来たとき、主があなたがたのために葦の海の水を涸らされたこと、そして、あなたがたが、ヨルダンの川向こうにいたアモリ人の二人の王シホンとオグにしたこと、二人を聖絶したことを私たちは聞いたからです。 

11 私たちは、それを聞いたとき心が萎えて、あなたがたのために、だれもが気力を失ってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天において、下は地において、神であられるからです。 

12 今、主にかけて私に誓ってください。私はあなたがたに誠意を尽くしたのですから、あなたがたもまた、私の父の家に誠意を尽くし、私に確かなしるしを与え、 

13 私の父、母、兄弟、姉妹、また、これに属するものをすべて生かして、私たちのいのちを死から救い出す、と誓ってください。」 



彼女は命をかけて神様の側に付き従いました。その信仰と行動は神様に義と認められます。新約聖書は「遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行いによって義と認められたではありませんか」(ヤコブ2:25)と言います。


今日も主は恐れるべき神様です。そして、神様の前では僕ら全ては罪人であり聖絶の対象です。だのに、神様はまずイスラエルを選び、愛し、滅びから救うために、契約を結ばれました。イスラエルが立派だったからでなく、神様の選びと憐れみです。そして、神様は繰り返し「生きるかぎり、あなたがたの神、主を恐れることを学ばなければならない。」と教えます。(申命記31.13)この救いの恵みと憐れみは僕ら外国人にも与えられています。ラハブも外国人でした。僕らも外国人です。主を恐れて信じた人は人種、国籍に関係なく救われることの先駆けです。(ガラテヤ3.28-29)

救われる方法はただ「主を恐れ信じること」です。神様が世界をさばくけども、イエス様が身代わりになって聖絶される側、呪われる側になってくださいました。それを信じ、イエス様の側に付き従うことです。


今日もイエス様の側を選択しましょう。イエス様に従うことを行動で表しましょう。それはどんなことよりも価値のあることです。裁きはあります。そして、恵みも救いもあります。「主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。」です。(詩篇 33:18 

今日も信じ、従う日でありますように。ハレルヤ!

2023年5月24日水曜日

ヨシュア1.1-9

 ヨシュア1.1-9


神様がおっしゃったことをそのまま信じることはすごく大事です。必ずその通りになるからです。

神様はヨシュアにカナンの土地を与えることを「すでにあなたがたに与えている。」(3)とおっしゃいます。時間を超えておられる神様から見ると、もうすでに与え終わっています。あとは、聞いた人が信じてその通りに行動するだけです。



(1-5)

1,主のしもべモーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げられた。

2,「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこの民はみな、立ってこのヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの子らに与えようとしている地に行け。

3,わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたが足の裏で踏む場所はことごとく、すでにあなたがたに与えている。

4,あなたがたの領土は荒野からあのレバノン、そしてあの大河ユーフラテス川まで、ヒッタイト人の全土、日の入る方の大海までとなる。

5,あなたの一生の間、だれ一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。



神様はイスラエルの領土を「乳と蜜の流れる地」と何度も言われ、それは彼らのものとなります。決定済みです。

でも、実際にはこれからです。神様はもう与えていますが、ヨシュアとイスラエルの民は今から出発することが必要です。神様は「今、あなたとこの民はみな、立ってこのヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの子らに与えようとしている地に行け。」と命令します。(2)この時期ヨルダン川はすごく水が多い時期だそうで、「えー!無理ー!」って思う場面です。でも、神様の目にはもうヨルダン川を渡り、その土地を与えることは終わったも同然です。必ず与えられるからいるから行きなさい、と言われます。「わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたが足の裏で踏む場所はことごとく、すでにあなたがたに与えている。」(3)です。必ず与えられますが、聞いた人々は信頼して、出発して、戦って、進む、というプロセスが必要でした。信じて出発し「あなたがたが足の裏で踏む場所はことごとく」与えられます。(3)神様を信頼して進むときには「だれ一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。」とさえ言われています。(5)


これは僕らにも適用できる真理です。神様の国は僕らのものとなります。それは素晴らしい世界です。聖書は何度も信じる人は御国を相続する、とか、御国を受け継ぐ、と約束します。それは決定事項です。それで、僕らの側はそれを信じて日々希望を持って神様に従います。イエス様はすでに敵であるサタンに勝利しています。そのイエス様がいつも一緒だらどんなことがあっても大丈夫です。必要なのは「信じること」です。信じることが勝利そのものです。というより、もうイエス様が勝利しています。


今日も神様は僕らと一緒にいます。神様は言われます。「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにいるのだから。」(9)


神様の言葉をそのまま信じましょう。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11.1)必ずその通りになります。ハレルヤ!