コロサイ3.16 地上から天上へ ユース集会6/25メッセージ
感謝できないのが僕らです。なんでもクレームをつけるのが人間です。コンビニで、温かい飲み物と冷たい飲み物を同じ袋に入れただけで、不満。おはようって声かけたのに、こっち向いてくれなかったのが不満です。聞こえてなかったのか、あえて無視されたのかわかりません。気に入らないことや不安なこと不満なことが無限に出てくるのが罪のある人間の姿。
そのまま教会に集まると、賛美とか礼拝の中にも文句が出てきます。この曲は嫌いとか、ピアノの弾き方がうるさいとか、祈りが長すぎる、とか。説教が退屈だとか、どんなことでもでも、文句になる。これが僕らの肉の姿、罪人の姿です。
反対に、なんでも感謝できる世界があります。なんでも喜べる。欠点があってもゆるせる、愛せる、そういう世界があります。これは神様のの御国です。神様の完璧なご支配、王国です。地上にはないけど、やがてもう一度イエス様が地上に来られ、全てを裁き、全ては新しくされ、不安も不満も消え去る世界。そして、先駆けとして、イエス様を信じた人たちには天の御国がすでにきている。イエス様は天の御国はあなた方の中にあるのです、とおっしゃいました。
これは、イエス様を信じて、イエス様と一緒にいて、イエス様から与えられる御霊に満たされた人の姿。天の御国の現れです。これはクリスチャンだけの特権です。ひどい状況なのに、感謝が目に付木、欠点だらけなのに、良いところが目につき、悪いことされてもゆるそうと思います。なんででしょうか?それは自分もゆるされているからです。そのように喜びや感謝をいつも発見してしまうのは聖霊の働き。
天の国、神様の住まいには感謝と喜びしかありません。悲しみや怒りや叫びはありません。
地上にいながら、この天と交わってるのが僕らです。
こんなに文句ある状況なはずなのに、天と繋がってるからそれでも感謝し賛美します。
天にあるものをを思いなさい、それを求めなさい、というのが3章1-2節です。
3章
1,こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
2,上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。
上にあるもの。それは感謝と喜びに満ちている世界です。では地にあるものって何でしょう。さっきも言ったけど、聖書はこう続きます。
5,ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。
8,しかし今は、これらすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、ののしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを捨てなさい。
9,互いに偽りを言ってはいけません。
いろんな例えがあるんだけど、一つは、これは着替えのようです。と聖書に書いてあります。
地上の服はきったない臭い服で、天の服は新しい美しい服のようです。地上にいながら天の服を着たようです。もうすでに僕らは着替えました。
9,あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、
10,新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。
新しい服とは、新しい人格。新しい人です。これはキリストと一緒に生きる、という新しい服です。
臭くて汚い、世界に生きているけど、美しい服、キリストという新しい服を着ている。その服は完璧で、新しくされ続けます。
しかも、内側まで美ししてくださる服で、心を変えてくれる服です。
新しい人格、新しい性格、新しい心は、古くならない服のようです。もっと新しく、美しくなっていきます。「造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。」
新しくされ続ける神さま方法があります。それは神様の言葉、キリストの言葉が自分の中に住んで、キリストの言葉、キリストの心が自分の心、自分の考えとなっていくことです。美しく変えられ、神様に似ていく方法を神様は与えてくれました。
その方法。それはなんでしょう。
正解は、16節
16,キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。
答えは、「詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。」歌うことです。しかも、神さまが与えてくださった詩と賛美と霊の歌で、です。解釈は諸説あって、詩篇、聖書の歌、御霊によって作られた新しい賛美ではないか、などなどいろんな解釈があるんだけど、文脈から間違いないのは教会の歌によって歌によってキリストの言葉が住み、歌によって、互いに教え合い、神様に向かって感謝することです。歌によって、教会全体が新しい心に変えられ、神様の形に新しくされていきます。
1 神に向かって。
感謝の歌は神様に捧げるものです。人に聞かせるものではありません。これは基本です。
神様を愛し、神様を讃えます。これは天の世界です。「感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。」感謝のあるところに文句がありません。不満もありません。感謝と不満は両立できません。感謝と不安も両立できません。
※人を励ますと疲れが取れる、って話を聞いて、本当にそうだと思いました。
また、人にプレゼントすると、プレゼントもらった人よりあげた人の方が喜んでいる時もあります。人を励まし、愛する言葉を使うとそれを受ける人以上に、それを発する人に喜びと癒しがあります。もちろん、言葉とかプレゼントとか苦手な人もいる。言葉恥ずかしい、とか、プレゼントあげるのは慣れてない、という人もいますが、でも、ハードルを超えて誰かにプレゼントしたり、励ましや愛の言葉を使うときに、喜びがあります。受けるより与える方が幸いです。
結婚式の親への感謝の手紙はみんな感動します。あれだけ文句あったはずなのに、感謝を表すことは親も嬉しいけど、本人も癒されます。それを聞いている人も癒します。親も嬉しいけど、本人にとって良いことしかありません。聞いている人たちにも喜びと感謝が溢れます。
聖書は受けるより与える方が幸いといいます。礼拝とは、受けるものではなく、与えるものです。神様に捧げるものです。賛美は受けるのではなく捧げるものです。言葉を使って、歌を使って神様を愛し感謝する、天と繋がる癒しと平和に満ちた世界です。
よく読むと、「感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。」とあります。口先とか、心がないのにカタチだけはダメです。ああ、めんどくさいな、という口先だけの賛美はだめです。癒しはないし、喜びもない。聞く人も辛いです。偽善です。また、人に聞かせよう、私の歌うまいでしょう、今日はうまくいかなかった、とか、音程がどうだった、とか、人に注目するのでなく、神に向かって、です。自分アピールの祈りとか、自分アピールの賛美リードとか、そういうはダメです。「感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。」そこでは歌のうまさとか関係ありません。
※子どもが小さかったとき。「パパありがとう」「誕生日おめでとう」と歌ってくれました。
その時には問題なのは、音程ではないし、リズムがあってるかどうかではありません。心からそう言ってることが嬉しかったです。もし、子供なのに気を遣って、お父さんに歌ってあげなきゃ、とか思っていたらそれは悲しいし痛いことです。めんどくさいな、と思ってるのもかわいそうです。でも、感謝を持って心から歌ってくれるならそれは僕にとって喜びです。子どもたちにとっても喜びです。
2 人に向かって
もう一つ、賛美の歌は、聞いてる人たちにも教え、忠告する、そして新しくする面があります。
さっき、結婚式の親への手紙の話をしましたが、聞く人たちは、みんなこういう素晴らしい親だったんだ、と思うし、何より、その子が感謝しているのを聞いて、一緒に喜びます。
同じように、教会の歌は、神様への感謝であると同時に、神様の素晴らしさを教えてくれる、ツールです。キリストの言葉を豊かに住まわせてくれる、キリストの心が私たちの心になるために、歌を用いて、互いに教え、互いに戒め、天に心を向けさせ、僕らを新しく美しく成長させる歌です。これは神様の方法で「歌を用いて、キリストの言葉を豊かに住まわせ」という訳になってないけど、
ちなみに、同じ表現はエペソ5.19にもあります。歌は教え、語り合うためでもあります。
19,詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。
歌はそれを聞く人も、神様って素晴らしな、って知るツールです。キリストの言葉を豊かに住まわせてくれます。
賛美の歌は、神様への感謝だけど、同時に僕らが歌で教えられ、忠告され、変えられ、成長する方法でもあります。歌によって、こんなに神様が素晴らしい、こんなに愛してくださった、だのに、自分は感謝がなかった、自分は文句ばかりだった、そういう悔い改めも歌によって与えられます。賛美しながら、神様、ごめんなさい、と思う時もよくあることです。賛美の中で、悔い改めの涙が、悔い改めの祈りが出てくることがよくあります。賛美は僕らを造り替えます。
16,キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。
復習ですが、3章は天にあるものを求めなさい、という話でした。
天には何の不満も文句もないし、神様への感謝と喜びと赦しに満ちた世界です。
賛美は天と地をつなげてくれます。
黙示録を読むと、天では無数の天使たちが主を賛美していることがわかります。
黙示録5章
11,また私は見た。そして御座と生き物と長老たちの周りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の数万倍、千の数千倍であった。
12,彼らは大声で言った。「屠られた子羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です。」
天国で賛美を受ける方は「屠られた子羊」です。殺された子羊。旧約聖書の時代、罪を犯した人の代わりに羊を殺して神様に許しを願っていました。礼拝する人は、目の前で羊が血を流し、動かなくなって死んでいくのを見ました。この羊によって自分は赦された、と思いました。
そのように、殺される羊のように、苦しんで死んでいったのが、イエス様です。この羊によって、血を流して貼り付けになって死んでいくイエス様を見て、自分は赦された、と知ります。天国でも、賛美されているのは、素晴らしい無敵の主、ではなく、弱くて殺されたとみられる子羊、イエス様です。
このイエス様への感謝が、天でも捧げられています。天の礼拝ではイエス様!と言わず、いつも子羊、しかも、屠られた子羊と言われてます。
賛美の歌は、天の礼拝と地上をつなげるものです。僕らが悔い改め、新しくされつづける、神様の方法です。
賛美は感謝、祈りであると同時に、僕らをキリストの言葉で満たし、悔い改めさせ、あたしく変え続けてくれる方法です。聞く人たちにも良いものをもたらします。もっとも素晴らしい神様への捧げものです。
賛美は最強。感謝は最強です。心からの感謝と賛美のあるところには不満は共存できません!感謝しましょう。賛美しましょう。ハレルヤ!
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