2023年8月31日木曜日

士師記20.17-35

 士師記20.17-35


祈りは成長します。祈っていると祈りが変化していきます。最初は「神様、こうしてくださいね」と上からだったのが、成長すると「神様、こうじゃなくていいです。思い通りにしてください」と下になります。

イスラエル人たちの祈りがそうでした。最初はベニヤミン族がレビ人の側女をレイプして殺したことに怒り、復讐してやる、という思いに満ちていました。その時の祈り方は怒りを晴らすのは決定、という祈りです。攻撃しますから、どの部族が最初に行ったらいいですか、という問い合わせの祈りです。自分たちは復讐します。神様は手伝ってくださいね、という感じです。



(17-20)

17,イスラエルの人々は、ベニヤミンを除き、剣を使う者四十万人を召集した。彼らはみな戦士であった。

18,イスラエルの子らは立ち上がって、ベテルに上り、神に伺った。「私たちのうち、だれが最初に上って行って、ベニヤミン族と戦うべきでしょうか。」主は言われた。「ユダが最初だ。」

19,朝になると、イスラエルの子らは立ち上がり、ギブアに対して陣を敷いた。

20,イスラエルの人々はベニヤミンとの戦いに出て行き、彼らと戦うためにギブアに対して陣備えをした。



自分たちが上で、神様はそれを手伝ってください、という祈りですが、それでも神様は「ユダが最初だ。」と答えくださいます。…ですが、彼らは完全に負け、大勢の人たちが逆に殺されました。



(21-23)

21,ベニヤミン族はギブアから出て来て、その日、イスラエルのうち二万二千人を滅ぼした。

22,しかし、イスラエルの人々の軍勢は奮い立って、最初の日に陣を敷いた場所で、再び戦いの備えをした。

23,イスラエルの子らは上って行って、主の前で夕方まで泣き、主に伺った。「再び、同胞ベニヤミン族に近づいて戦うべきでしょうか。」主は言われた。「攻め上れ。」



彼らの祈りは変わりました。泣きながら、今度は「戦うべきでしょうか。」とと言います。戦わない選択も受け入れます、気持ちです。しかも相手は仲間である同胞ベニヤミン、という意識もあって、「再び、同胞ベニヤミン族に近づいて戦うべきでしょうか。」(23)と伺いました。神様はそれにも答えてくださいます。神様の答えは「攻め上れ。」です。(23)その結果はまたも惨敗でした。



(24-25)

24,そこで、イスラエルの子らは次の日、ベニヤミン族に向かって行ったが、

25,ベニヤミンも次の日、ギブアから出て来て彼らを迎え撃ち、再びイスラエルの子らのうち一万八千人をその場で殺した。これらの者はみな、剣を使う者であった。



彼らの祈りはさらに変化します。泣きながら断食をします。断食は自分のエネルギー源を神様だけにすることです。彼らは全焼のささげものを捧げます。動物を自分の代わりに殺して焼き尽くすことは、「私の全ては神様のものです」という完全な献身を表します。今までは自分が上でした。でも、二回の敗北を経験して今は全てを神様に明け渡しています。まな板の鯉です。殺されてもいいのです。イサクが祭壇の上で縛られて命を差し出し、神様に明け渡したように、彼らは自分を手放し、神様に明け渡しました。



(26-28)

26,イスラエルの子らはみな、こぞってベテルに上って行って泣き、そこで主の前に座り、その日は夕方まで断食をし、全焼のささげ物と交わりのいけにえを主の前に献げた。

27,イスラエルの子らは主に伺った──当時、神の契約の箱はそこにあり、

28,また当時、アロンの子エルアザルの子ピネハスが、御前に仕えていた──イスラエルの子らは言った。「私はまた出て行って、私の同胞ベニヤミン族と戦うべきでしょうか。それとも、やめるべきでしょうか。」主は言われた。「攻め上れ。明日、わたしは彼らをあなたがたの手に渡す。」



思い通りの結果が与えられないと、僕らは「神様なぜですか?」と文句を言いたくなります。神様のご計画は僕らの考えとは全然違います。「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」と言われる神様です。(イザヤ55.9)失敗するのを知りながら神様はサムソンを選びます。失敗するのを知りながら神様はアダムを作ります。神様なぜですか?と思うことは今もたくさんあります。でも、僕らは神様ではありません。神様は僕らよりも遥かに高く、賢く、人知を超えたご計画をなさいます。


敗北を繰り返す中で祈りが変化して行きました。上からでなく、神様の前に自分を明け渡すように変えられます。怒りで行動するのではなく、自分を低くして神様のご計画に委ねるように変わります。


祈りは成長します。最初は「神様、こうしてくださいね」と上からだったのが、成長すると「神様、こうじゃなくていいです。思い通りにしてください」と下になります。


思い通りにならないことは恵みです。傲慢さや高ぶりから僕らを少しずつ解放し自由にしてくださるプロセスです。

今日も祈りましょう。「私でなく、神様のご計画が」天で行われるように地でも行われますように。



2023年8月30日水曜日

士師記20.1-15

 士師記20.1-15


僕らはいつも「自分は悪くない。ヒドいのは相手」と言いたいものです。100ゼロで相手が加害者、自分が被害者です。ところがイエス様は言われます。「あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか。(…中略…)偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。」(ルカ6.41-42)


側女がレイプされ殺された男は、それをイスラエルの国中にアピールします。それは「こんなにひどいことをされた!」と言いますが、レイプさせた自分の残酷さや罪は言いません。強烈に主張するために殺された女性の死体を切り分けて、各部族に送ります。それによって、国中の人たちは驚き、怒り、興奮して集まって来ます。



(19.29-30)

29,彼は自分の家に着くと、刀を取り、自分の側女をつかんで、その肢体を十二の部分に切り分け、イスラエルの全土に送った。

30,それを見た者はみな、「イスラエルの子らがエジプトの地から上って来た日から今日まで、このようなことは起こったこともなければ、見たこともない。このことをよく考え、相談し、意見を述べよ」と言った。



(20.1-6)

1,そこで、イスラエルの子らはみな出て来た。ダンからベエル・シェバ、およびギルアデの地に及ぶその会衆は、一斉にミツパの主のもとに集まった。

2,民全体、イスラエルの全部族のかしらたちが、神の民の集会に参加した。剣を使う歩兵も四十万人いた。

3,ベニヤミン族は、イスラエルの子らがミツパに上って来たことを聞いた。イスラエルの子らは、「このような悪いことがどうして起こったのか、話してください」と言った。

4,殺された女の夫であるレビ人は答えた。「私は側女と一緒に、ベニヤミンに属するギブアに行き、一夜を明かそうとしました。

5,すると、ギブアの者たちが私を襲い、夜中に私のいる家を取り囲み、私を殺そうと図りましたが、彼らは私の側女に暴行を加えました。それで彼女は死にました。

6,そこで私は側女をつかみ、彼女を切り分け、それをイスラエルの全相続地に送りました。これは、彼らがイスラエルの中で淫らな恥辱となることを行ったからです。



彼は事実を曲げて報告します。実際、女を狂った男たちに与えたのはこの人です。(19.25)でも、そのような残酷さや罪は隠します。彼女が朝まで暴行され気を失って倒れていた時も、彼は気せず、介抱せず、治療せずに見殺しにしました。(19.28)ところが彼は全国に「彼らがイスラエルの中で淫らな恥辱となることを行った」(6)と主張し、人々の怒りをあおります。実は性的な満足のために最初に彼女を利用していたのはこの人です。でも、悪いのはあいつら、正しいのは私、と主張します。

これが神様から離れた僕ら人間の本性です。罪は罪を生み、怒りは怒りを生みます。これによってイスラエルは互いに攻撃し合い大混乱になっていきます。罪を告発し、互いに責め合いさらに殺し合うようにさせるのは悪魔の大好物です。(黙示録12.10)


神様から離れた人の姿を聖書は赤裸々に教えてくれています。この人が悪くて、また、レイプした人たちが悪くて自分は正しい、と僕らも言いたげです。でも、神様から離れた僕らは全く同じになります。今、僕らが罪から解放され、他人を大事にしたいと思えるのは100パーセント神様から与えられた恵みです。イエス様が身代わりにその呪いを受け、僕らを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移して解放してくださったからです。(コロサイ1.13)


「私が正しい。相手が悪い」のではありません。誰も自分を上に置くことはできません。イエス様だけが正しい方であり、イエス様だけが正しくさばく真理のお方です。僕らは憐れみを受けた罪人です。


他人の罪にイラッときたらチャンスです。僕らにはもっと大きな罪があります。(ルカ6.41-42)その罪は僕らの姿です。まずは自分の罪を認めましょう。あの醜い罪は僕らの本性です。まずは自分から悔い改めましょう。イエス様以外に救いはありません。




2023年8月29日火曜日

士師記19章

 士師記19章


士師記19章の15節以降は聖書の中でもっとも狂った人たちのレイプと殺人の悲惨な話です。そして、これが神様を離れた人間の姿です。僕らがこの話を読んで「ひどすぎる」「残酷だ」と思うならそれは神様の憐れみで与えられている恵みです。神様から離れた人は悪魔の支配下にあり、良心を失い、人を人と思わなくなってしまいます。聖書は神様から離れた人の悲惨さをありのままに書いています。

あるレビ人が逃げた側女を連れ戻す帰り道の話です。レビ人とは本来神様に仕える人です。その人が性的な満足の目的のためだけに側女を持っていました。逃げた女性を取り戻し、帰り道、ギブアという町である老人の家にとめてもらいます。そこで、淫らな欲望に狂った男たちに囲まれてしまいます。



(20-22)

20,老人は言った。「安心なさい。足りない物はすべて私に任せなさい。ただ、広場で夜を過ごしてはいけません。」

21,こうして老人は彼を自分の家に連れて行き、ろばに飼葉をやった。彼らは足を洗って、食べて飲んだ。

22,彼らが楽しんでいると、なんと、町の男たちで、よこしまな者たちが、その家を取り囲んで戸をたたき続け、家の主人である老人に言った。「おまえの家に来たあの男を引き出せ。あの男を知りたい。」



知りたい、とはセックスしたい、ということです。男と男でやりたい、ということです。



(23-24)

23,そこで、家の主人であるその人は、彼らのところに出て行って言った。「それはいけない、兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでくれ。あの人が私の家に入った後で、そんな恥ずべきことはしないでくれ。

24,ここに処女の私の娘と、あの人の側女がいる。今、二人を連れ出すから、二人を辱めて、あなたがたの好きなようにしなさい。しかしあの人には、そのような恥ずべきことをしないでくれ。」



この老人は自分の娘もを差し出す、と言いました。あの人の側女を差し出す、とも言います。

飢えた狼のような男たちに、自己保身のために自分の娘を差し出す老人がいます。狂ってる男たちの中に自分の側女を差し出す人がいます。結局、差し出されたのはこの側女です。

このレビ人は、野良猫の首を捕まえて放り出すように、側女をその男たちのところに出し、女性は朝まで大勢の男たちにレイプされ、意識を失いました。



(25-27)

25,しかし、男たちは彼に聞こうとしなかった。そこで、その旅人は自分の側女をつかんで、外にいる彼らのところへ出した。彼らは彼女を犯して、夜通し朝まで暴行を加え、夜が明けるころに彼女を放した。

26,夜明け前に、その女は自分の主人がいるその人の家の戸口に来て、明るくなるまで倒れていた。

27,彼女の主人は、朝起きて家の戸を開け、出発しようとして外に出た。見ると、そこに自分の側女である女が、手を敷居にかけて家の入り口で倒れていた。



朝方になって這って玄関まできて意識を失っていた側女を見ても、このレビ人は全く気にもしませんでした。彼が言ったことはたった一言。



(28)

彼は女に「立ちなさい。さあ行こう」



自分を守るために彼女を犬に食わせるかのように、野獣の餌にするかのように差し出します。

人間は神様から離れると、人は獣のようになり欲望のままになります。この人は側女を連れ戻そうとしましたが、その女性のことはどうでも良かったことがわかります。ただ、自分のためだけに利用したかっただけです。


神様から離れた人は欲望の奴隷となっています。ブレーキが効きません。自分の力では止めることができないし、悪いとも思わなくなります。罪の報酬は死です。しかも、これが「それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」という聖書は言います。(17.6)神様から離れた人は欲望のままに生きることが良いことに見えます。


この話を聞いて、残酷だ、気持ち悪い、と想う人は幸いです。義に飢え渇く人は幸いです。自分の残酷さに悲しむ人は幸いです。その人は聖霊が与えられている人です。聖霊によってだけ罪はわかります。神様から離れていることがわかります。


イエス様がいなければ、僕らの道は滅びです。自分の欲望のために殺し合い、利用しあい、ただ死んでいくだけのものです。

イエス様に感謝しましょう。彼らは自分の目に良いと思っていたけど、実は暗闇の力、悪魔の力の圧制の中でコントロールされていました

その悪魔の世界からイエス様が救い出してくださいました。


自分の歪みを認める人は幸いです。自分の罪を認める人は幸いです。自分の愚かさにがっかりしているなら幸いです。イエス様がそんな僕らをゆるし、きよめてくださいます。ハレルヤ!











2023年8月28日月曜日

士師記18章

 士師記18章


僕ら人間は神をコントロールしたがります。神様が本当に神様ならば、人が作ったりコントロールしたりできない方です。だのに、人間は神より上になりたがります。口では「神さまは…」とか言いますが、実際は自分の損得が最優先で、そのために神様を動かそうとします。聖書は「神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えた」と言います。(ローマ1.25)

ミカという人は自分用の神の宮を作り、自分用の偶像を作り、拝んでいました。主の律法も使えるところだけ採用して、祭司が身に着けるエポデ(詳しくは出エジプト28章)も作りました。唯一の主と周りの国々の偶像がミックスされたような独自の宗教みたいなものです。聖書は「それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」と言います。(17.6)



(17.5-6)

5,このミカという人には神の宮があった。彼はエポデとテラフィムを作り、その息子の一人を任命して、自分の祭司としていた。

6,そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。



さらにミカは若者を雇い、祭司にします。聖書の教えとは違う非公認の「マイ祭司」です。「給料を出すからウチの幸せのために祭司をやってくれ」という感じです。この若者もまた、簡単に同意して引き受けます。(17.10-13)神様を離れた人は自分の都合、損得が全てです。お金でマイ祭司を雇ったミカも満足げです。「今、私は、主が私を幸せにしてくださることを知った。レビ人が私の祭司になったのだから。」と言っています。(17.13)


ダン族は定住地を探していました。神様はすでにダン族にくじで場所を定め与えてくださっていました。ですが、彼らは敵を恐れてそこを手に入れませんでした。(士師記1.34)神様がくださった土地よりももっとラクに手に入る場所を探していました。土地を探す途中にミカの家の祭司に神様のみこころを伺います。



(5-6)

5,彼らは言った。「どうか神に伺ってください。私たちのしているこの旅が、成功するかどうかを知りたいのです。」

6,その祭司は彼らに言った。「安心して行きなさい。あなたがたのしている旅は、主がお認めになっています。」



この祭司は主に祈りもせず、主を恐れもせず、主に聞こうともしません。神様の場所を無視するダン族を「あなたがたのしている旅は、主がお認めになっています。」と簡単に祝福します。この祭司はニセもので、人に気にられ、喜ばれるためにやってるだけです。神様は不在の人ですが、神様の名を利用して生活しています。バイトで結婚式場で牧師の役目を演じてる人のようです。この後、ダン族600人はミカの家にあった彫像も鋳造も奪い、この祭司もダン族の祭司として連れて行きます。



(17-20)

17,あの地を偵察に行った五人の者たちは上って行き、そこに入り、彫像とエポデとテラフィムと鋳像を取った。祭司は、武具を着けた六百人の者と、門の入り口に立っていた。

18,これら五人がミカの家に入り、彫像とエポデとテラフィムと鋳像を取ったとき、祭司は彼らに言った。「何をしているのですか。」

19,彼らは祭司に言った。「黙っていなさい。手を口に当てて、私たちと一緒に来て、私たちのために父となり、また祭司となりなさい。あなたは一人の人の、家の祭司となるのと、イスラエルで部族また氏族の祭司となるのと、どちらがよいのか。」

20,祭司の心は躍った。彼はエポデとテラフィムと彫像を取り、この人々の中に入って行った。



「祭司の心は躍った。」とあります。(20)個人宅の祭司から、もっと大きなダン族全体への祭司への出世です。この人は神様より自分の立場、栄光、権力優先です。ダン族は「私たちと一緒に来て、私たちのために父となり、また祭司となりなさい。」と言いました。(19)

今もよくある話です。田舎の小さな教会の牧師をやるより、大きな教団のエラいポジションにつきたい、もっと良い給料、待遇が欲しい思う誘惑があります。祭司とか牧師と言われる人も出世したい会社員と本性は同じです。


ミカは鋳造や彫像を作り、「私が造った神々」と呼びます。(24)神様を作り、コントロールしたがります。それに仕える祭司もまた、自分が上に行きたいと思って周りが気に入ることを話します。士師記は神様と離れた僕らの本性を現しています。イエス様は下に下へと行き、神様に仕え、人を恐れず真実を話す方、それでいてへり下って隣人に仕える方です。そのイエス様の御霊が僕らの中に住んでおられます。肉は御霊に対立します。肉は神様よりも自分を上にしたがり、神様をコントロールしたがり、自分の立場や損得だけで発言します。現代の教会もその指導者たちもこの戦いの中にあります。「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になる」と聖書は言います。(2テモテ4.3)また、預言者エレミヤは警告しています。


(エレミヤ6.13-14)

なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得をむさぼり、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行なっているからだ。彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている。



自分に聞いてみましょう。神様を第一にしているのか、それとも自分の都合に仕えているのかと。今日もう一度主の前に自分を手放しましょう。栄光と主権は神様のものです。人を恐れずに真実な神様の言葉の前にへり下り、明け渡す日でありますように。ハレルヤ!




2023年8月22日火曜日

士師記13章

 士師記13章


親なら自分の子どもには良いものを与えたい、最高のことをしてあげたいと思います。それで、マノアは神様に祈りました。「神の人を再び私たちのところに来させ、生まれてくる子に何をすればよいか教えてください。」特に、不妊だったのに与えられた子は特別です。マノアの奥さんは不妊でしたが急に子どもが与えられ、しかも、その子は神様から特別な使命が与えられ、「彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める。」と言われる子です。(5)



(1-5)

1,イスラエルの子らは、主の目に悪であることを重ねて行った。そこで主は四十年間、彼らをペリシテ人の手に渡された。

2,さて、ダンの氏族に属するツォルア出身の一人の人がいて、名をマノアといった。彼の妻は不妊で、子を産んだことがなかった。

3,主の使いがその女に現れて、彼女に言った。「見よ。あなたは不妊で、子を産んだことがない。しかし、あなたは身ごもって男の子を産む。

4,今後あなたは気をつけよ。ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。汚れた物をいっさい食べてはならない。

5,見よ。あなたは身ごもって男の子を産む。その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子は胎内にいるときから、神に献げられたナジル人だから。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める。」



マノアの奥さんは急いで夫に報告しました。夫マノアも大興奮です。与えられる子どもに最高のことをしたいと思います。それで、彼は神様に祈ります。「生まれてくる子に何をすればよいか教えてください。」と祈ります。妻からの報告もいいけど、やはり直接聞きたいし、子どもに何をすればいいか教えて欲しいのです。



(6-8)

6,その女は夫のところに行き、次のように言った。「神の人が私のところに来られました。その姿は神の使いのようで、たいへん恐ろしいものでした。私はその方がどちらから来られたか伺いませんでした。その方も私に名をお告げになりませんでした。

7,けれども、その方は私に言われました。『見よ。あなたは身ごもって男の子を産む。今後、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。汚れた物をいっさい食べてはならない。その子は胎内にいるときから死ぬ日まで、神に献げられたナジル人だから』と。」

8,そこで、マノアは主に願って言った。「ああ、主よ。どうか、あなたが遣わされたあの神の人を再び私たちのところに来させ、生まれてくる子に何をすればよいか教えてください。」



神様に祈り求める人は必ず教えてもらえます。「求めなさい。そうすれば与えられます。」(マタイ7.7)「知恵に欠けている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。」(ヤコブ1.5)神様は祈りに答えて教えてくれました。その答えは、まずあなたがた自身を神様に献げなさい、ということです。



(12-14)

12,マノアは言った。「今にも、あなたのおことばは実現するでしょう。その子のための定めと慣わしはどのようなものでしょうか。」

13,主の使いはマノアに言った。「わたしがこの女に言ったすべてのことに気をつけなければならない。

14,ぶどうからできる物はいっさい食べてはならない。ぶどう酒や、強い酒も飲んではならない。汚れた物はいっさい食べてはならない。わたしが彼女に命じたことはみな守らなければならない。」



一定期間、主のためだけに聖別した時間を過ごす人のことを「ナジル人」と言い、その人は酒を飲まず、汚れたものに近づかないようにします。(詳しくは民数記6章にあります)生まれてくる子は「胎内にいるときから死ぬ日まで、神に献げられたナジル人」と決まっていました。そして、その親としてすべきことは、自分をささげることでした。「今後あなたは気をつけよ。ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。汚れた物をいっさい食べてはならない。」と言われています。(1、7、14)


聖書全体は禁酒を教えてはいませんが、神様のために一定期間酒を飲まず、贅沢をせず、普段の生活をやめて神様のために一定期間何かを手放し献げることは、今でも神様に喜ばれることです。食事を抜いて祈りの時間を増やすとか、仕事を一定期間やめて学びに行くとか、お金を神様と人のためにささげるとか、大事なことは神様のために何かを手放すことです。それは喜ばれ、次の世代への祝福につながります。

僕らは子どもたちに最高のものを与えたいと思います。実子でなくても、次の世代に、教え子に良いものを与えたいと思います。その答えはまず僕ら自身が神様に自分を明け渡すことです。



(ローマ12.1-2)

あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。」



今日も神様のために何かを手放しましょう。一見、犠牲に見えますが、実はそこには天の喜びと楽しみと平安が満ちています。今日僕らが主のものとされますように。そして次の世代もまた主のものとされますように。ハレルヤ!