2コリント11.21-33
師匠である阿部牧師から言われたことが忘れられません。「牧師が悪いと批判され、攻撃されたら健全。イエス様がそのように罵られたお方だから。」
コリント教会に入り込んでいたニセ教師たちは人から奪い、威張り、褒められ、支配する人たちでした。自分たちこそ正当なイスラエル人であり、かつキリストのしもべだと自慢し、自己推薦していたようです。パウロはそんなニセ教師たちと比較しようとは思わなかったし、比べ合うのは愚かなことだと言い切ります。(10.12)ですが、「だれかがあえて誇るのなら、私は愚かになって言いますが、私もあえて誇りましょう。」と言い、自慢できることを話し始めます。(21)その内容はこの世の栄光とは真逆、ニセ教師たちが自慢していることとは正反対でした。
(23-31)
23,彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうです。労苦したことはずっと多く、牢に入れられたこともずっと多く、むち打たれたことははるかに多く、死に直面したこともたびたびありました。
24,ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、
25,ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
26,何度も旅をし、川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、海上の難、偽兄弟による難にあい、
27,労し苦しみ、たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました。
28,ほかにもいろいろなことがありますが、さらに、日々私に重荷となっている、すべての教会への心づかいがあります。
29,だれかが弱くなっているときに、私は弱くならないでしょうか。だれかがつまずいていて、私は心が激しく痛まないでしょうか。
30,もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さのことを誇ります。
31,主イエスの父である神、とこしえにほめたたえられる方は、私が偽りを言っていないことをご存じです。
今も昔も教会指導者の自慢と言えば輝かしい業績のように何人の人をキリストに導いたか、とか、祈ったらあの人が癒やされた、とか、この教会は何人集まってるとかを話しがちです。ところが、パウロは傷つけられ、苦しんだことを誇ります。キリストのために苦しむことこそ、キリストに倣うことであり、喜ばれるささげものだと知っていたからです。
(1ペテロ2.19-21)
もしだれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです。
罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。
僕らは教会の仲間の苦しみを見聞きする時、仲間が神様から離れていくときにすごく悲しくなります。できれば問題には関わりたくありません。こっちが傷つかないようにしよう、と思います。でも、イエス様は違います。そしてパウロも違います。一緒に苦しみ、一緒に傷つき痛むことを選びました。「だれかが弱くなっているときに、私は弱くならないでしょうか。だれかがつまずいていて、私は心が激しく痛まないでしょうか。」(29)イエス様は「その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。」と言われます。(1ペテロ2.21)
パウロはキリストと同じような道を歩みたい、その足跡に倣いたい、と願っていました。キリストと一緒に死に、キリストと一緒に栄光の復活に参加するのが彼の願いです。だから宣教のために苦しむことはキリストと一緒に歩むことの証だし、誇りでした。
僕らの世界もまた地位や財産、学歴や外見や能力を誇りがちで、キリストと一緒に苦しむことを誇る人はあまりいません。でも、聖書は言います。弱くされることは、キリストに倣うことです。忍耐することは喜ばれることです。そして、弱い時こそキリストの愛と力と救いだけを体験します。パウロは言います。「私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(2コリント12.10)
今日も試練はあります。神様からの罰ではなく、キリストと一緒に低くされ、キリストと一緒に忍耐し、キリストと一緒に傷つくためです。「悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです。」ハレルヤ!
0 件のコメント:
コメントを投稿