2023年9月4日月曜日

士師記19.15-20.7「自分によって良いことの悲惨さ」メッセージ

 士師記19.15-20.7「自分によって良いことの悲惨さ」



●時代背景


聖書は文字通り聖なる本ですが、その内容は殺し合い、騙し合い、レイプ、盗み、殺人、死体遺棄の実態が書かれている本です。そしてそれは人の肉欲の本当の姿です。今も実際に起こっているある現実です。


士師記はまさに、それぞれの目に良いことをしていた時代です。それは悲惨です。


士師記17章6節、21章25節

そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。


「王がなく」神様に仕える、神様を恐れる王がいなかった、と言う意味です。後でまた出てくるフレーズです。


私たちは聖書の中で1番めちゃくちゃな箇所を読んでいます。それが19章です。


飢えた狼のような男たちに、自己保身のために自分の娘を差し出す老人がいます。

淫らなことに取り憑かれて狂ってる男たちの中に自分の側女を差し出す人がいます。


神様から離れた人は相手を愛するのではなく、性欲を満たす便利な道具として相手を「利用」するようになります。制欲は本来神様から与えられた男女が一つになっていくための素晴らしい祝福と喜びの賜物です。ところが神様が離れると相手は自分にとって役にたつか立たないか、で評価します。性欲はコントロールできなくなり、性欲のままに動く野獣のようなものになってしまいます。野獣化した人はさらにコントロールできずに性欲を男同士で使うようになります。

それが「自分の目に良いと見えること」です。


※博子さんの働き。

性的な奴隷とするための人身売買、性の奴隷として使い、そして不要になったら捨てる世界。まるで人間が快楽のための商品のように扱われている現実の中で働いています。

多くの女の子が誘拐され、行方不明となり、いつの間にか売買されて売春宿で奴隷のように使われています。使えなくなったら捨てられて行きます。なんとかその子たちを保護し、愛し、守り、回復させる働きが博子さんの働きです。本当に尊敬します。


その国だけでなく、これはタンザニアでもあることだし、日本でも見えないところでは行われていることです。これが神様から離れてしまった人間の姿です。一番最初、悪魔は善悪の木の実を食べるように誘って、あなた方の目が開かれ、神様のようになれる、と言いました。神様の判断ではなく、あなたの判断が正しいよ、という誘惑です。自分の目に良いと思えばそれで大丈夫だよ、と騙された結果は悲惨です。



殺してはならない。姦淫してはならない、他人の妻を欲しがってはならない、と聖なる神様が教えてくださいました。それは祝福のためです。でも、この時代のイスラエルは神様の教えより自分の目の良く、肉の欲に仕えていました。神様から離れた全ての人間の本性です。罪の現実です。


🔴自分の目に良いこと その1 欲望のままに生きること


まず、レビ人が登場します。


1,イスラエルに王がいなかった時代のこと、一人のレビ人が、エフライムの山地の奥に寄留していた。この人は、側女として、ユダのベツレヘムから一人の女を迎えた。


ここでも「王がなかった時代のこと」と言います。みことばによって国を導くリーダーがいない時代です。


レビ人とは主に仕えるため、手の礼拝に仕えるために特別に取り分けられた人たちです。「主の家へ帰る途中です」と書いてあります。(18)主に使えるための部族でです。その彼が、側女を持っていました。側女とは、性的な快楽だけを目的とした存在です。そして、この側女はこの男から逃げ出して実家に帰ります。


2,ところが、その側女は彼を裏切って、彼のところを去り、ユダのベツレヘムにある自分の父の家に行って、そこに四か月間いた。


2節。前の訳でも、新共同訳でも「彼を嫌って」「腹を立てて」彼のところを去ります。父の家に行ったとあります。性欲の吐口として使われるだけのことが嫌だったし、耐えられなかったようです。彼女は裏切り、逃げて、実家に帰っていました。ところが、レビ人は取り戻すために実家に行きます。そして、上手に話し、彼女の心に訴えて連れ戻そうとしました。



3,夫は、若い者と一くびきのろばを連れて、彼女の後を追って出かけた。彼女の心に訴えて連れ戻すためであった。彼女が夫を自分の父の家に入れたとき、娘の父は彼を見て、喜んで迎えた。



「彼女の心に訴えて連れ戻すためであった。」愛してるとか、あなたがいないと寂しいとか、これからはもっと大事にする、とか言ったかもしれません。でも、後で、彼女が使い捨てにされていたことがはっきりとわかります。


帰り道、ギブアという町である老人の家にとめてもらいます。そこで、淫らな狂った男たちに囲まれてしまいます。



20,老人は言った。「安心なさい。足りない物はすべて私に任せなさい。ただ、広場で夜を過ごしてはいけません。」

21,こうして老人は彼を自分の家に連れて行き、ろばに飼葉をやった。彼らは足を洗って、食べて飲んだ。

22,彼らが楽しんでいると、なんと、町の男たちで、よこしまな者たちが、その家を取り囲んで戸をたたき続け、家の主人である老人に言った。「おまえの家に来たあの男を引き出せ。あの男を知りたい。」


町の男たちがその家を囲みました。ドアを叩き続けます。ドアを壊しそうな勢いです。「おまえの家に来たあの男を引き出せ。あの男を知りたい。」知りたい、とはセックスしたい、ということです。

女性とでなく、そのレビ人、その男と男でやりたい、と怒鳴ってドアを叩き続けます。欲望のままに生きている人たちです。



23,そこで、家の主人であるその人は、彼らのところに出て行って言った。「それはいけない、兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでくれ。あの人が私の家に入った後で、そんな恥ずべきことはしないでくれ。

24,ここに処女の私の娘と、あの人の側女がいる。今、二人を連れ出すから、二人を辱めて、あなたがたの好きなようにしなさい。しかしあの人には、そのような恥ずべきことをしないでくれ。」



この老人は自分の娘もを差し出す、と言いました。あの人の側女を差し出す、とも言います。

このレビ人は、野良猫の首を捕まえて外に放り出すように、側女をその男たちのところに出しました。



25,しかし、男たちは彼に聞こうとしなかった。そこで、その旅人は自分の側女をつかんで、外にいる彼らのところへ出した。彼らは彼女を犯して、夜通し朝まで暴行を加え、夜が明けるころに彼女を放した。

26,夜明け前に、その女は自分の主人がいるその人の家の戸口に来て、明るくなるまで倒れていた。

27,彼女の主人は、朝起きて家の戸を開け、出発しようとして外に出た。見ると、そこに自分の側女である女が、手を敷居にかけて家の入り口で倒れていた。


この女性は一晩中大勢の男たちにレイプされ、朝方になって解放され、這って玄関まできて意識を失いました。想像するだけで気持ちが悪く、醜く残酷な姿です。これが人間の現実です。このレビ人はこの女性が倒れているの「見た」とあります。悲惨な姿を見ました。でも、この女性がどうなるか、殺されようが、犯されようが、全く関心がないようです。このレビ人は自分の都合だけです。そして、朝出発するぞ、と言います。見るとそばめが玄関の前で倒れています。彼が言ったことはたった一言。


28,彼は女に「立ちなさい。さあ行こう」


ヘブル語ではたった2つの単語です。たて、いくぞ。それだけ。


大丈夫か、ひどいことされたな、とか悲しい気持ちは一切興味ありません。たて。行くぞ。それだけ。

その人をロバに乗せて運びました。


28,彼は女に「立ちなさい。さあ行こう」と言ったが、何の返事もなかった。


この女性を最初親切そうにして連れ戻そうとしましたが、実はその女性はどうなっても良くて、徹底して最後まで自分のためだけに利用したかったことがわかります。


性欲は神様が人間に与えてくださった祝福の欲望です。男女が一つになることは素晴らしい神様からの祝福です。男女が愛し合い一つになることは神様の姿に似ているすばらしく良いところです。神様は「人間を作られた時、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」と書かれています。


性欲は神様の祝福のためのプレゼントです。ところが神様から離れた時から性欲は残酷なことが起こる原因になってしまっています。


🔴自分の目に良いこと。その2 自分は正しいと言うこと


家に着くと、彼は女の死体をナイフで切り始めます。腕を切り、足を切り、首を切り、胴体をきり、12に分けます。なんのためでしょう?

イスラエルには12部族があって、そこに死体の一部をそれぞれに、ユダ族には首、ルベン族には右腕、アシェル族には足首、そんな感じで、死体の一部を切り取って送ります。

国中に残酷なレイプ事件が起こったぞ、とアピールするためです。



29,彼は自分の家に着くと、刀を取り、自分の側女をつかんで、その肢体を十二の部分に切り分け、イスラエルの全土に送った。

30,それを見た者はみな、「イスラエルの子らがエジプトの地から上って来た日から今日まで、このようなことは起こったこともなければ、見たこともない。このことをよく考え、相談し、意見を述べよ」と言った。


彼がやりたいこと、やったことは、①性欲のために彼女を使うことでした。②自分を守るために犠牲にすることでした。③次に、使えなくなった女性はどうするか。死体をバラバラにして、この事件をネタにして人々の怒りを煽り、殺したベニヤミン族のギブアの町の人たちがどんなに自分にひどいことをしたかアピールして、復讐することです。

自分の目に良いことをしています。相手がどんなにひどいやつか、アピールすることは良いこと。


自己保身のために彼女を犬の餌にするかのように差し出したのはこの人です。でも、それは言いません。



死体を送りつけたことで、国中が反応します。


1,そこで、イスラエルの子らはみな出て来た。ダンからベエル・シェバ、およびギルアデの地に及ぶその会衆は、一斉にミツパの主のもとに集まった。

2,民全体、イスラエルの全部族のかしらたちが、神の民の集会に参加した。剣を使う歩兵も四十万人いた。



ダンからベエルシャバ、日本で言うと北海道から沖縄まで。みんな集まってきた。一体何が起こったのか、と武装して集まってました。そしてそのレビ人に聞きます。


3,ベニヤミン族は、イスラエルの子らがミツパに上って来たことを聞いた。イスラエルの子らは、「このような悪いことがどうして起こったのか、話してください」と言った。


さて、レビ人は何て答えたでしょう。


4,殺された女の夫であるレビ人は答えた。「私は側女と一緒に、ベニヤミンに属するギブアに行き、一夜を明かそうとしました。

5,すると、ギブアの者たちが私を襲い、夜中に私のいる家を取り囲み、私を殺そうと図りましたが、彼らは私の側女に暴行を加えました。それで彼女は死にました。


彼は事実を曲げて報告します。実際、女を狂った男たちに与えたのはこの人です。(19.25)でも、そのような残酷さや罪は隠します。

彼女が朝まで暴行され気を失って倒れていた時も、彼は気せず、介抱せず、治療せずに見殺しにしました。19章をよく読むと、倒れていて返事がなかっただけで、死んでいたとは書かれていません。(19.28)見殺しにしたことは彼は言いません。


6,そこで私は側女をつかみ、彼女を切り分け、それをイスラエルの全相続地に送りました。これは、彼らがイスラエルの中で淫らな恥辱となることを行ったからです。


反対に、彼の主張は「彼ら(ギブアの住民)がイスラエルの中で淫らな恥辱となることを行った」(6)と主張し、人々の怒りをあおります。悪いのはあいつら、正しいのは私、可哀想なのは私、妻、と主張します。

アダムの罪と同じです。善悪の知識の実を食べた時に、彼は妻のせいにします。私は悪くない、と言いたげです。

これが神様から離れた僕ら人間の本性です。罪は罪を生み、怒りは怒りを生みます。これによってイスラエルは大混乱になっていきます。互いに責め合いさらに殺し合うようにさせるのは悪魔の大好物です。(黙示録12.10)



7,さあ、あなたがたすべてのイスラエルの子らよ。今ここで、意見を述べて、相談してください。」


これによって全国民は怒り、報復しよう、攻撃しよう、という気運が高まります。全国民が我々は正しい、あの人たちが悪い、攻撃しようと言い出しそして内戦が起こります。この事件が起こったギブアの町があるベニアミン族を攻撃します。


8,そこで、民はみな一斉に立ち上がって言った。「私たちは、だれも自分の天幕に帰らない。だれも自分の家に戻らない。

9,今、私たちがギブアに対してしようとすることはこうだ。くじを引いて、向かって行こう。


この話は人間の中にある最悪な部分を浮き彫りにしています。神様を離れた人は自分に善悪の知識があると高ぶり、自分は正しい、自分は悪くない主張します。悪いのは相手です。正しいのは自分です。


彼は自分は被害者。悪いのはギブアの人たち、と言いましたが、神様の目にはそうではありません。人々は神様のことばではなく、それぞれの目で判断しています。その結果は争い、殺し合いです。


イエス様はおっしゃいました。


「あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか。(…中略…)偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。」(ルカ6.41-42)



●イエス様による新しい歩み



「私が正しい。相手が悪い」と僕らは今だに言いがちです。でも、イエス様だけが義です。イエス様だけが真理です。誰も自分を上に置くことはできません。イエス様だけが正しい方であり、イエス様だけが正しくさばく真理のお方です。僕らは憐れみを受けた罪人です。


僕らが罪から解放され、他人を大事にしたいと思えるのは100パーセント神様から与えられた恵みです。イエス様がいなければ僕らも同じように欲望のまま生きて、自分が正しい、と相手を攻撃し傷つけあうだけです。昔は僕もポルノを見て、もっとやれやれ、と思ったものです。でも、今は気持ち悪いし、世界からポルノが消えろ、と思います。神様が肉欲と暴力と殺人の世界から救い出してくださったからです。


悪魔の世界からイエス様が救い出してくださいました。

過去がどんなでも、贖われました。取り戻されました。もう自分の目が正しい、と思う悪魔の世界ではなく、神様の子どもとして、神様の目はどうかな、と神様の目、神様の心で生きようとする新しい命に生まれ変わりました。

僕らは神様の子どもです。


2コリント 5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。


今でも戦いがあります。でも、勝利しています。


ガラテヤ 5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。



今でも自分は正しい、といいたくなります。人をさばく上から目線との戦いはあります。真面目なクリスチャン、牧師ほど危ないと思います。


イエス様を信じる時に、僕らではなく、キリストが僕らの心を作り替えてくださいます。イエス様を信じることは、自己中で野獣のような僕らが死んで、キリストの命がはじまった、ということです。相手を本当に愛することは神様によらなければできません。


(ガラテヤ 2:20)

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。



性的な交わりは、相手を利用したり苦しめ、殺すものではなく、相手を生かし、相手に仕え、神様の祝福と愛を現すものです。

これは、イエス様によって神様に立ち返った人だけが回復可能な祝福です。


欲望のままに生きる必要がなくなりました。神様の御霊は僕らに自制心を与えてくださいます。そして自分は正しい、相手が悪い、と頑張らなくて良くなりました。

正しい人はいません。ただ、イエス様だけが義です。その神様の義を私たちに与えてくださっています。

「自分の目に正しいと見えること」はあてになりません。


今日のタイトルは「自分の目に良いことの悲惨さ」みんな私はこう思う、私は正しい、俺はこうだ、僕は悪くない、と言います。

でも、大事なのは、神様の愛と恵みです。イエス様によって与えられる義。正しさ、それだけです。

僕らは神様によって新しく変えられます。祝福があります。ハレルヤ!



考えてみましょう。


①「自分の目に良いこと」の悲惨さはあなたの周囲にはどんな実例がありますか?


②あなたにとってイエス様によって新しく変えられた視点はどんなことですか?具体的に挙げてみましょう。

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