コロサイ1.22-29
赤ちゃんが生まれたらすごく嬉しいけど、同時にその日から苦しみも始まります。ある番組でお母さんたちにアンケートを取ったら「一度でいいから1人でお風呂にゆっくり入ってみたい。ゆっくりシャンプーしてみたい」「ゆっくりトイレに行ってみたい」「1人でコンビニに行ってみたい」「朝まで寝てみたい」という答えが集まりました。もう少し大きくなると子どもたちは勝手なことをやり、親に文句を言いはじめます。親はそれを悲しんだり怒ったりしながら忍耐し、親であり続けます。人を育てる事は愛することです。そして愛する事は忍耐し、自分がすり減っていくことです。
イエス様はご自分を捨てて、苦しみを受け、僕らを取り戻し、神様の子どもとしてくださいました。そうやって生まれた僕らは将来「聖なる者、傷のない者、責められるところのない者」となることが決まっています。今は成長の途中です。
(21-22)
21,あなたがたも、かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありましたが、
22,今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです。
今、完成しているのではありません。これから成長します。しかも、クリスチャンは自分だけでなく、周りの子どもたちのためにも苦労します。教会の仲間たちがいます。自分が導いた信仰の赤ちゃんたちもいます。彼らを育てることは忍耐そのものです。でも、その先には喜びが待っています。
(24)
今、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。私は、キリストのからだ、すなわち教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。
教会の成長には苦しみがあります。親が子どものために苦しむのと同じです。同時にそこには期待と喜びもあります。パウロはコロサイ教会のために苦しみます。それはキリストの苦しみでもあります。キリストがパウロの中にいて、パウロを用いて教会を愛し、教会を育てます。それゆえにパウロは忍耐し苦しみます。それを「自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。」と表現しています。(24)
(28-29)
28,私たちはこのキリストを宣べ伝え、あらゆる知恵をもって、すべての人を諭し、すべての人を教えています。すべての人を、キリストにあって成熟した者として立たせるためです。
29,このために、私は自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。
クリスチャンは自分だけでなく教会全体の成長のために苦しみます。イヤだけど将来の喜びが約束されている苦しみです。しかもそのための愛や忍耐は僕らからは出ません。忍耐のキャパは小さく、すぐに堪忍袋の緒は切れ、もうやめた、出ていく、あなた方とは別れる、他の教会を探す、などなどと言いがちです。一方、イエス様の愛と忍耐は無限です。パウロは「私は自分のうちに力強く働くキリストの力によって労苦しながら奮闘しています。」と言います。(29)愛はキリストのもの、忍耐も労苦もキリストのものです。
僕らにもキリストと一緒に忍耐し、愛し、教え、育てる人がいるはずです。助け続けるべき相手がいます。愛は忍耐です。人を、教会を育てましょう。苦しみなしに育てることはできません。誰かのために苦しむことはキリストと一緒に苦しむこと、キリストの苦しみに参加することです。「自分のうちに力強く働くキリストの力によって」(29)です。愛し、育て、苦しむことを神様から頂いた大事な使命だと思って忍耐しましょう。ゴールは決まっています。「聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるため」(22)「キリストにあって成熟した者として立たせるため」です。(28)
喜びと報いがある仕事です。尊い、イエス様のお仕事そのものです。光栄ある仕事です。産みましょう。育てましょう。ハレルヤ!
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