2023年10月23日月曜日

1ヨハネ3.1-12

 1ヨハネ3.1-12


「クリスチャンになったのにいつも罪に流されてしまう…」「肉欲に勝てない…、あの人がゆるせない…」と言う悩みを聞くことがあります。答えは「罪が苦しい、そんな自分はイヤ、と思うことは神様の子どもとなったしるし、聖霊が住んでおられる証拠」です。聖なるキリストとつながった人は罪を嫌がります。罪がが苦しくて悩むはずです。キリストと罪とは完全に真逆、水と油、磁石のSとNのように反発するものです。ヨハネの手紙第一は何度も「キリストにとどまる者はだれも、罪を犯しません。」(6)「神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。」と繰り返し言い切ります。(9)一方で、「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。」(1.8)とも言います。どっち?!と思います。答えは、神の子どもは罪を犯すことがないけども、同時に僕らの中には「罪」と言う汚い人格がまだ住み着いていて抵抗していることです。キリストが住むキレイなアパートに入居したのに、前の汚い住民がそこにまだいる、と言う状況です。それが僕らの肉体の中で起こり、苦しめています。



(ローマ8.15-20)

私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。

(…中略…)、今それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪なのです。(…中略…)私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。(…中略…)それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。



神様の子どもは罪を犯しません。キリストにつながった僕らは罪を嫌い、それを無視し、やめようとし、キリストに似たものになろうとします。



(1-3)

1,私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。

2,愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。

3,キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。



どれほど罪とキリストが真逆か、聖書は説明します。罪は悪魔から出ています。愛することは神様から出ています。



(8-11)

8,罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。その悪魔のわざを打ち破るために、神の御子が現れました。

9,神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。

10,このことによって、神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりします。義を行わない者はだれであれ、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。

11,互いに愛し合うべきであること、それが、あなたがたが初めから聞いている使信です。



罪とは「律法に違反することです。」(4)律法とは神と人を愛することです。(11)しかも、愛とは「いい感じ」に好かれることでもなく、自分を捨てて神様に従うことです。そして兄弟姉妹のために自分のいのちを捨てることです。(3章16節)これはキリストのご性格です。この、自分を捨てる愛の人に僕らもなります。いや、もうなってます。やがて完璧にそのような人になることは決定です。「キリストが現れたときに、キリストに似た者に」なります。(2)今はその途中です。「キリストが清い方であるように、自分を清くします。」(2)


「神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。」(9)とは、罪と共存することを受け入れないことです。罪をするたびに苦しくなります。なので、聖書はそれを認めて告白して捨てるように言います。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(1:9)僕らは神様の子どもなので、無罪として生まれ変わりました。やがて神様に似て完全に変えられるように「神の種がその人のうちにとどまっているからです。」(9)兄弟姉妹を愛さない、と言う選択はありません。悩むけど、答えは一択です。自分を捨てて神様を愛すること、自分を捨てて人を愛することです。そのような神様の子どもにもうなってます。「罪も仕方ないんじゃない」と言い、罪をなんとも思わず痛くも痒くもない人は悪魔の子どもだし、その区別があると聖書は言い切ります。



(10)

このことによって、神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりします。義を行わない者はだれであれ、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。



僕らは神様の子どもです。神と人を愛する以外の選択はありません。神様から生まれた人は罪を犯したくもありません。妥協案とか、ほどほどにするとか、落とし所はありません。愛する一択です。罪の誘惑はあるけども、イエス様はもう勝利しています。「その悪魔のわざを打ち破るために、神の御子が現れました。」(8)僕らは自分で思う以上の、すごい愛の人、神の子どもに変えられています。「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。」(1)僕らは自分で思う以上の神様の子どもです。聖なる人、愛の人です。もう、自分が生きているのでなく、キリストが僕らのうちに生きておられます。すごいことです。ハレルヤ!(ガラテヤ2.20)



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