2023年10月2日月曜日

詩篇22篇 メッセージ

 詩篇22篇 神に捨てられたと感じる時に 


神に捨てられたと感じる私たち


人の助けもなく、神様も助けてくれない、そんな経験皆さんもあると思います。人に囲まれ、いじめられ、助けてほしいのに周りの人は見て見ぬふりです。みんな自分のことばっかりで本気で向き合ってくれる人はいません。クラス中から無視されたとか、囲まれて暴力を振るわれたとか、程度の差はあっても悲しい経験はそれぞれあると思います。しかも、なんで私だけこんなひどい目に合うんですか?そんな経験です。今も戦争で全てを奪われた人たちの話を聞きます。兵士として戦場に行って帰ってきた人たちはどこにぶつけたらいいかわからない怒りと悲しみの中にいる、傷つき、病院でただただ、私たちは彼らの嘆きと怒りを聞くだけと、ウクライナで牧師をしている船越先生からの報告を読んでいます。


聖書に書かれた祈りや叫びは赤裸々で、きれいごとではないです。

神様を信じています、クリスチャンです、と言いながら、どうして神様は私の祈りに答えてくれないの、と言う経験は思います。こんなに祈ったのに神様どうしてですか?どうして助けてくれないんですか?いつまでですか?そんな祈りです。僕自身も何度か、そして長くそのような時期が続いたことがありました。職場で苦しんでいた時には毎朝起きるたびに、「神様、どうしてですか、いつまでですか。答えてくれないのですか」とため息と呟きだけが出たのを思い出します。

今日の聖書はそのような嘆きです。


(1-2)

1,わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。

2,わが神昼に私はあなたを呼びます。しかしあなたは答えてくださいません。夜にも私は黙っていられません。


さらに、悪いことに、周りの人は祈りが聞かれた、とか、神様に救われて感謝している、とか、そういう言う話を聞かされています。自分だけが見捨てられている気がします。


(4-5)

4,あなたに私たちの先祖は信頼しました。彼らは信頼しあなたは彼らを助け出されました。

5,あなたに叫び彼らは助け出されました。あなたに信頼し彼らは恥を見ませんでした。


教会の友達は言っています。祈ったら癒された、とか神様は素晴らしいね、とか、よく聞く話です。

でも私だけは違うのです。私は神様に捨てられている気がします。そんな嘆きの祈りが聖書に書かれています。


今日のメッセージは、まさにそのような人のための祈りと嘆きのお手本です。

そしてこれはイエス様の祈りです。十字架で磔にされ、この詩篇22篇の祈りをしました。今日のメッセージは見捨てられている、と感じる人への救いのメッセージです。



Ⅰ この嘆きが救いになる理由

①イエス様が捨てられた罪人となったから

②イエス様が義を完了してくれたから


なぜこの諦めたような叫びが、私たちの救いにつながるのか?


その理由は、イエス様ご自身がこの嘆きと叫びをそのまま祈って、そしてこの詩篇の通りにイエス様ご自身が本当に神様に見捨てられ、神様が答えてくれないと言うどん底を経験されたからです。


なぜどん底を経験したイエス様の絶望が、私たちの救いになるのか?

今日のメッセージでそれが明らかにされ、暗闇の中にいる人たちが希望を持つことができるように、どん底にいる人たちがその先にある光を見ることが出来るように、祈り、願いつつお話しします。


そして、この詩篇を読んでいくと、この叫びが、どん底の叫びが、どん底で終わらず、その先に喜びと希望が約束されていることがよくわかります。22節以降は喜びと賛美です。僕にも皆さんにもどん底がどん底ではなく、通過点であることが今日よくわかりますように。詩篇の後半は感謝と賛美です。イエス様は十字架で殺され、苦しみ、我が神、どうして私を見捨てたのか、と叫び、殺されました。でも、3日後に復活して、弟子たちに現れ、今天に登り、栄光と賛美と喜びの中にいます。

どん底の嘆きなのに、賛歌に変化していくのが22篇です。


①イエス様が捨てられた罪人となったから


イエス様が十字架の上で叫んだ言葉です。その記録が福音書にあります。


(マタイ27.46)

三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。



イエス様は22篇で叫びます。お父さんから引き離される、捨てられる、と言う感覚を経験したことがありませんでした。ずっとお父さんの愛の中にいました。「あなたは私の愛する子。私はあなたは喜ぶ」とその言葉の中で生きていた。私と父は1つですと言う感覚の中で生きていました。天のお父さんが祈りを聞いてくれないとか、助けてくれないって言う事は、イエス様にとっては1度だってなかったことです。


ところがイエス様は捨てられました。

お父さん、父、といつも呼んでいたのに、今はお父さん、とは言わず、わが神、と言い方を変えてます。もう、いつものようにヘブル語で「アバ」親しい言い方で日本語にするなら愛するパパ、という言い方です。でも、もうそう呼べなくなってます。わが神、わが神、と叫びます。遠く感じていることがわかります。


なぜイエス様でさえ祈りが聞かれなくなったのか?その理由が3節です。


(3)

けれどもあなたは聖なる方 御座に着いておられる方 イスラエルの賛美です。


神様は聖なる方です。だから、汚れた罪人と交わる事は無いのです。今、イエス様が罪人代表となった時には、もう聖なる神様と交わることができなくなってしまいました。神様は聖なる方です。聖なる、とは、隔絶している、という意味です。汚れたものと交わる事はありません。イエス様は私たち罪人の代表として、罪ある人となりました。


(第二コリント5章21節)

神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。


罪のない聖なるイエス様が、汚れた罪人となり、神との間に仕切りの壁ができて、祈りが届かない、呪われたものとされました。預言者イザヤはそのことを説明して言っています。


(イザヤ 53:6)

主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。


イエス様が私たち人間の全員の罪を背負って罪人となった、と。

僕の罪。あなたの罪。全部引き受けて背負って、神に捨てられた人とされ、呪われた罪人になりました。


●虫けらのような死


祈りが聞かれないだけでなく、人間扱いされない虫のようにされています。


(6)

しかし私は虫けらです。人間ではありません。人のそしりの的民の蔑みの的です。


虫けら、一番価値のない、すぐに潰されてしまう。そのような価値のない虫のようだ。誰も守ってくれないものだ。英語だとほとんどワームと訳しています。ミミズとか、ウジムシとか細長い虫の意味。原文では、赤い虫、当時の赤い染料をとる虫だったという説があります。

当時の赤い虫は、その虫の死体から体液から赤い色を取るそうです。

その虫は卵を産むときに木に張り付いて無数の卵を産むそうですけども、その時に木が赤く染まるそうです。まるで十字架の木のようだ、とある先生は説明していました。


同じように、この時すでにイエス様の体は血だらけです。当時のローマの鞭うちの刑は残酷で、肉が避けるように先端が金属や棘でできています。その先端は顔にも直撃して、顔は崩れていました。まるで血だらけの虫のよう。体から赤い液体を出す虫のようです。


●嘲笑の中の死


虫けら、潰される虫のようなひどい扱いを受けているだけでなく、笑われ罵られ続けます。


(7-8)

私を見る者はみな私を嘲ります。口をとがらせ頭を振ります。

「主に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。」


今までイエス様は求めなさい、そうすれば与えられます。と教えてきた方です。祈りなさい。感謝しなさい、と教えてきた方です。ところが、今は、神様が答えてくれない。その状況を見て、周りは笑います。

神様に身をまかせたら良い助け出してもらえるんでしょ、お祈りしたら聞かれるんだろうと笑ってくる。馬鹿にしてくる。

答えは、2節のようにあなたは答えてくれない。


(2)

わが神昼に私はあなたを呼びます。しかしあなたは答えてくださいません。


神様私の祈りに何も答えてくれない。私は見捨てられたように感じる。僕らが経験したことは、もうイエス様が経験されていることです。

そのように笑われ、罵られ続けたことが、詩篇22篇と全く同じことがイエス様の人生に起こりました。

マタイの福音書で同じことが書かれています。


(マタイ27:43)

彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。


イエス様が十字架につく1000年も前にダビデは嘲笑の中を死んでいくイエス様を預言していました。

口を大きく開けて笑い、嘲笑的な侮辱を浴びせ続けました。いくら叫んでも神様はお前を助けないだろう、という笑いです。それが8節「主に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。」


●罪を背負うための肉体


こんなに苦しいなら生まれなきゃよかった。絶望する時によく聞くセリフです。

なんで母親は私を産んだのか。わが神、どうして私を見捨てたのですか、という嘆きの続きで、私をこの世に生んだのは神様だ、神様が私を母のお腹から取り出し、この世で生きるようにしたのだ、といいます。


(9-10)

9,まことにあなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。

10,生まれる前から私はあなたにゆだねられました。母の胎内にいたときからあなたは私の神です。


イエス様は神の子であり、神ご自身である、と聖書は言います。神は霊であり、ことばであった、と言います。(ヨハネ1.1-2)イエス様は神様と一つでした。肉体を持って生まれる必要はなかった神様です。お母さんから赤ちゃんとして生まれる必要はなかったはずです。


聖なる神様が、肉体を持ってこの世に生まれることは、罪人となり呪われるためでした。イエス様は神様に完全に従い、人として生まれ、お母さんに委ねられました。神である方が、お母さんに母乳を飲ませてもらう弱い小さな人になった。これは全てを捨てて人と同じになられたことの一つです。肉体を持ち、普通の人間として生まれ育ったことは、痛めつけられ、壊れていくために、苦しむために、刺され、血を流すために与えられたかのような肉体です。


(ローマ8.3)

神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。


(ヘブル2.14)

そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。


神に捨てられ呪われる人間の代表として死ぬために肉体をお持ちになりました。


●脱臼、乾き、無関心


肉体があることで、イエス様は苦しみます。十字架の処刑を研究した人たちは、4つの傷、つまり、両手の撃たれた釘、そして、足に打ち込まれた釘が体を支えると言うどうなるかを調べたそうです。


(14)

水のように私は注ぎ出され骨はみな外れました。心はろうのように私のうちで溶けました。


主要な関節は脱臼していくそうです。肩とか腕とか。そしてその次に肺呼吸が困難になっていくそうです。それで十字架に磔になった死刑囚は息をしたいがために釘で刺された足で体を持ち上げなければならないそうです。それは激痛です。そうやって苦しんで死んでいくのがこの十字架刑だそうです

兵士たちは囚人を早く殺す時には足を折ることをしました。それは傷つけるのでなく、足で体を持ち上げられなくするために足の骨を折るそうです。それによって呼吸ができなくなって窒息させるためだそうです。


イエス様は先に死にましたが、周りの囚人は生きていました。そして、兵士たちはその足を折って殺したことが書かれています。


(ヨハネ 19:32-33)

それで、兵士たちが来て、イエスといっしょに十字架につけられた第一の者と、もうひとりの者とのすねを折った。

しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。


イエス様が死ぬ直前に言われたことは「私は乾く」です。


(ヨハネ19:28)

この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。



ヨハネの福音書を読むと、イエス様がわたしは乾く、と言ったのは、「聖書が成就するため」とあります。1000年前のダビデが預言した聖書、詩篇22篇が実現するために言ったのです。詩篇22篇の15節はまさに、乾きの極限になったとあります。


(15)

私の力は土器のかけらのように乾ききり舌は上あごに貼り付いています。死のちりの上にあなたは私を置かれます。


出血多量で脱水している時に、極端に渇きを感じるそうです。

もちろん、イスラエルは乾いていて、上は燃えるような太陽です。彼の渇きを癒すものは何もありません。そして、首は持ち上げることができず、垂れ下がったままです。その時に、イエス様の目は自分の肋骨を見ています。


(17-18)

17,私は自分の骨をみな数えることができます。彼らは目を凝らし私を見ています。

18,彼らは私の衣服を分け合い私の衣をくじ引きにします。


この預言の通りに、イエス様は死にました。

18節、「彼らは私の衣服を分け、私の衣服にくじを引いた。」ご存知のように、福音書に書かれていると通りにローマの兵士たちはくじで死刑囚の服を分けていました。当時の服は貴重だったしお金になりました。囚人、死刑、苦しみに兵士たちは関心がありません。むしろ、お金になる服を分けることに夢中です。これも、この詩篇の通りに、なりました。気がつかなったと思いますが、神様が言われた通りになりました。


②イエス様が義を完了してくれたから


ちょっとジャンプして、22篇の最後に書かれていることを先に読みます。


(31)

彼らは来て生まれてくる民に主の義を告げ知らせます。主が義を行われたからです。


は主が義を行われた。これは「完了した」という意味です。イエス様が全ての呪いを終えて、完了した、という意味です。福音書によると、イエス様は十字架の上で「完了した」と言われました。


(ヨハネ19.30)

(…略…)「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。


義を完了した。完成した、という意味です。義とは、神様の義、神様の正しさです。

神様である方が身代わりに神の怒りと呪いを終えてくれて、呪われる人を呪われないようにしてくれた、神様にも他人にも言えない罪がある私たちなのに、神様に捨てられて呪われて当然なのに、神様が代わりに全てを終えて、義をおこなわれた、と言います。僕らが正しいことをしたのでなく、「主が義を行われたからです。」(31)


ローマ3章26節

すなわち、ご自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。



私たちが神様から捨てられないようにして下さいました。イエス様が捨てられました。その支払いは犠牲は完了しています。


だから神様僕らは救われるのに、僕はこんなに頑張ってますとアピールする必要は無いのです。イエス様が十字架ですべてを捨てて愛してくださったこと以外に何かを付け加える必要がないのです。


※天国の入り口での質問


私たちいつか死んでイエス様とお会いします。天国に入ることができます。

もし神様に聞かれたら何て答えますか?あなたは聖なる聖なる、罪のない、汚れのない、天の国に入る資格があるのか?私はあなたを天国に入れなければならないんですか?皆さん何て答えますか?


私は30年も教会に通っているので、資格がありますといいますか?私は子供たちを立派に育てあげましたと言いますか?私はたくさん献金しました?といいますか私はリサイクル活動、CO2削減に貢献しましたといいますか?


そういう答えだったら全部間違いです。

私たちが神様の前で聖なる聖なる天の御国に入れていただけるその唯一の理由は、イエス様を指差して、彼が捨てられたから、彼が私のために呪われ犠牲になってくださったからです。それだけです。


これが主の義です。義とは正しさです。僕らの正しさではなく、主の義です


(31)

31,彼らは来て生まれてくる民に主の義を告げ知らせます。主が義を行われたからです。



Ⅲ 私たちの絶望、その先の希望


詩篇は途中がから賛美になります。

21の後半から世界が変わります。


(21後半-24)

21,あなたは私に答えてくださいました。

22,私はあなたの御名を兄弟たちに語り告げ会衆の中であなたを賛美します。

23,主を恐れる人々よ主を賛美せよ。ヤコブのすべての裔よ主をあがめよ。イスラエルのすべての裔よ主の前におののけ。

24,主は貧しい人の苦しみを蔑まずいとわず御顔を彼から隠すことなく助けを叫び求めたとき聞いてくださった。


見捨てられたと思ったのに、答えてくれないと思ったのに、長い目で見たら、「御顔を彼から隠すことなく助けを叫び求めたとき聞いてくださった。」とあります。(24)義と認められ、ゆるされ、しかも、祈りが聞かれる日がきます。自分で獲得したものは1つもありません。イエス様が身代わりに汚れた罪人となったことで、私たちが与えられたものです。


(22)

私はあなたの御名を兄弟たちに語り告げ会衆の中であなたを賛美します。


詩篇22篇は新約聖書が解説してくれています。

これはヘブル2章に引用されています


(ヘブル2.10-12)

彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされた(…略…)

「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」


後半の賛美の理由は、苦しみを通して、死ぬことを通ったけど、そのあと復活して完全なものとなっていあるからです。

イエス様は自分を完全に捨てて死ぬことによって、復活して栄光を受けています。自分が完全に下になり、砕かれる時によって、完全なものとなった、と聖書は言います。


愛とは、聖書によるとほんわかしたハートではなく、血だらけの愛、完全に自分を捨て、神様からも捨てられる愛です。うめき、嘆き、痛み苦しむ愛です。愛することは、自分を捨てることです。僕らが神様から愛されていることは軽いことではないです。イエス様が全部捨てて死んでくださった、命を手放してくださった、そういう愛です。僕らが教会に呼ばれたことは軽いことではないです。


だからそれを知った僕らも、自分を捨てる祈りに変えられます。今までの祈りは家内安全、交通安全、商売繁盛、みたいな祈りだたけど、最初はそうだけども、だんだん、イエス様の愛を知るほどに、自分を捨てる、自分が下になる、というように変えられます。そうやって、相手のため、隣人のために自分が下になるようになります。少しずつイエス様と一緒に苦しみにも参加するようになります。主の祈り「御心が天で行われるように地で行われますように」自分の願いでなく、神様の願い、計画のように行われますように、と変えられる。これが手放すことです。


(1ペテロ4.12-13)

12,愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。

13,むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。



それで、僕らも願いが叶わず、捨てられ、罵られ、全てを失ったように感じる時に、それはキリストの苦しみに一緒に参加しているし、キリストが復活されたように、僕らも、将来喜びに溢れる、と約束されています。

イエス様と同じく苦しいけど忍耐し、自分を捨てることは神様に喜ばれ、評価され、栄光に変えられることです。



(ヘブル12:2-3)

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。



皆さんの中に、イエス様と同じように、わが神わが神、どうして私をお見捨てになったのですか?と思っている人がいるかもしれません。


見捨てられる事はありません。見捨てたのでもありません。神様はあなたを見捨てることはありません。

その先には必ず復活があり、喜びがあり、栄光があります。


ーー考えてみましょうーー


神様に見放されていると思うことがありますか。

神様はその試練を通して、詩篇22篇を通して教えようとしておられることは何でしょう。


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