2023年11月20日月曜日

ヨハネ9.2-7  菅野圭介さん葬儀メッセージ

 ヨハネ9.2-7  菅野圭介さん葬儀メッセージ


菅野さんは盲人として生き、天の希望を持っておられました。

神様の御もとでは、完全に回復し完全に目が開かれます。

菅野さんはよく、「自分が盲人でよかった」「もし自分が見えていたらもっともっと誘惑があっただろうし、どうなっていたかわからない」とおっしゃっていました。


ある時、盲人を見て弟子たちがイエス様に言いました。


(2)

弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」


イエス様の弟子たちはこの盲人を見下し、親が悪いことをしたんじゃないか、バチが当たったんじゃないか、だから、こんな乞食になったんじゃないか、と言います。もしかすると本人が何か悪いことしてたんじゃないか、という上から見下したような質問をしました。


この態度は私たちの本性でもあります。盲人を見て、親の罪ですか、本人の罪ですか、と口には出さなくても心の中でする、そんな私たちの姿がこの箇所に現れています。他人の不幸を見聞きするたびに、バチが当たったのか、何か悪いことをしてたんじゃないか、と思いがちです。それに対して、イエス様の答えは全否定です。


(3)

イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。


彼が盲人になったのは罰ではないし、まして親の罪でもなく、神のわざが現れるためだとおっしゃいます。「わざ」は複数です。多くのわざが現れるためです。神の栄光のための盲目です。神様からの癒しを受け、神の力が発揮され、神の御業が現され、弟子たちもそれを目撃して、神が栄光を受けるためです。この後、この人は癒されて目が見えるようになります。わかりやすく神様の力が表わされます。でも、それだけではありません。


(4-5)

わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」


神のわざとは、暗闇に光を与えることです。あの人が悪いんじゃないか、この人のせいじゃないかと裁きあい、責めあっている暗闇のこの世の中です。そこに光が与えられることが神様のわざです。イエス様は「わたしが世の光です。」と言われます。


ヨハネの福音書1章5節

光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。 


8章12節

「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」


この世界は闇に覆われています。光である神様から離れてしまったこの世界です。他人の欠点を責めて、自分の欠点を責めて落ち込む世界です。まさに弟子たちが言うように、誰が罪を犯したからこうなったのですか?言って裁き合い、傷つけ合っている世界です。


イエス様の答えは、彼が盲目なのは神様のわざが現されるためです。神様のたくさんのわざのために彼は盲目なのです。単に目があけられるだけでは終わりません。誰が悪いと言っている闇の中に光を与えるためです。イエス様は人を裁くためでなく、人を救うために来たおっしゃいます。


神様のわざとは、人を癒すことです。神様の国というのは、完全に癒される世界です。不自由さや病気の中に生きている私たちにも希望を与えるため、本当に天国があると言うことを証するために来てくださいました。天の国では、すべてのものが完全に回復します。


聖書は言います。「義人はいない。ひとりもいない。」すべての人に罪があります。欠点があります。闇があります。闇のない人はありません。しかし、イエス様は罪を探して不幸を探して裁くためではなく、救うために来られました。そのためにこそ欠点があり、見えない目が与えられていると言うのです。


神の国では盲人の目は開けられると何度も聖書に書かれています。

昨日の前夜式でお読みし下、イザヤ35章5節と6節もう一度お読みします。


(イザヤ35.5-6)

5,そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。

6,そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れるからだ。


菅野さんの体は、神様の御もとで、完全に回復し目が開かれます。私たちは人の欠点を探します。親の欠点を探します。でもイエス様は違います。人の罪を探すためでなく、神のわざが、神様の光が現れるためだと言います。


親ならみんな心配します。自分のせいで子供を傷つけてしまったんじゃないかと。親に傷つけられることは事実です。また、若い時に罪を犯して、一生負い目を持っている人もいます。自分のせいでこうなったと責め続けている人、親のせいでこうなったと責めている人は大勢います。


でも、イエス様が来られたのは、責めるためでなく光を与えるためです。

どんなに失敗した過去があっても、どんなに欠点があっても、人に言えないことがあっても、その傷にこそ、神様が癒しを与えてくださいます。私はあなたを裁かない、あなたの罪は赦された、と言ってくださいます。


神はあなたの罪も不法も二度と思い出さないと聖書に書いてあります。これが光です。私たちの闇こそ、イエス様に照らしていただくべき闇です。私たちに欠点があるのはイエス様の力と赦しと癒しが与えられるためです


皆さんが自分を責めている事は何でしょう。皆さんが他の人を裁き、責めている事は何でしょう?

こうなったのは誰のせいだ、思っている事はあるでしょうか。


イエス様は、この人でも両親でもなく、神のわざ、神様の癒し、赦し、回復が現れるため、だとおっしゃいます。

神のわざとはゆるしです。回復です。和解です。癒しです。敵を愛し、迫害する人を祝福することです。

人は責めますが神は赦します。人は欠点探しをしますが、神様は欠点を覆い回復させてくださいます。


確かに神の怒りと罰はあります。でも、その呪いは、イエス様が身代わりに十字架の呪いを受けて過ぎ去らせてくださいました。聖書はいいます。「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」(ローマ5)イエス様の使徒パウロはいます。


(1テモテ 1:16)

私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。



菅野さんは完全に癒されています。イエス様の福音は、人を責めることではなく、人の過去をほじくり返すことではなく、人の欠点を探すことではなく、ゆるし癒すことです。殺すことではなく、生かすことです。死んでも生きる、永遠の命を与えることです。これがイエス様が下さる光です。菅野さんはいつもご家族がイエス様を信じることができるようにと祈っておられました。この光が、地上に残されている私たちに、菅野さんを愛するご家族に、ご友人にも注がれますように。この希望と喜びがみなさんの上にありますように。


最後に、この聖書が書かれた理由をお伝えします。ヨハネの福音書が書かれた理由が書いてあります。


ヨハネ20章31節これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。


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