居場所がない人のクリスマス ルカの福音書2章7節から14節
●居場所がないところに来られたイエス様
仲間外れだな、孤独だな、寂しいな、と思うことあるでしょうか。今日のメッセージは、そんな人のためのメッセージです。居場所がない人のためにイエス様が来てくれた、あなたは愛してる、あなたこそ選ばれている、というメッセージです。
(6-7)
6,ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、
7,男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
聖書が強調してる事は、「彼らのいる場所がなかった」です。イエスが家畜の餌のおけに寝かせられました。
僕が通っていた東京の神学校の家族寮と、学校の校舎の間、ちょうど寮と学校の間の真ん中位に小さな家畜小屋があって牛と鶏がいましたいました。で、毎朝そこの横を通るたび、すごく臭かったのを覚えています。ちょっと覗くと地面は牛のうんちやおしっこで濡れていました。イエス様が家畜のいるところで生まれたってこういう場所なのか、と、思わされました。誰もそんなところで生まれたいと思いません。でも、イエス様はわざわざそこを選んで、人間のいる場所でなく、家畜がいる場所を選んで、天から降りてきてくださいました。
マリアだって、初めて出産する何もわからない10代の女の子です。そんなところで産むのが嫌だったと思います。誰かベテランのおばさんが手伝ってくれたかどうか分かりません。孤独で劣悪で居場所がない出産だったと思います。今も 10代で、人知れず妊娠して、どうしていいかわからなくて、病院にも行かないで、家族にもバレないようにして、困り果てて誰も見ていないところで出産する女の子がいます。イエス様はそんな彼らと同じ立場になるかのようです。肩身の狭い人の味方、居場所のない人の味方、あなたと同じ、あなたと一緒に苦しむ、あなたと一緒に泣くって言ってくださっている気がします。
教会はイエスキリストの教会です。イエス様は、友達がいなくて、居場所がいない人のために来てくださった方です。そして教会は、そのイエスキリストの体であり、キリストの御霊を受けた人たちであり、そのキリストの手足であり器官です。
だからもし、教会がお金持ちとか有能な人とか、陽気な人とか友達が多い人とか、そういう人たちだけのグループならイエス様の願いとは違います。もちろん友達に囲まれて愛する家族に守られている人は祝福されています。でも、そうでない人をイエス様は特に大事にされていることがわかります。
●神様が最初に伝えたい人
(8-9)
8,さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。
9,すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
当時の羊飼いは、身分が1番低い人でした。みんながイスラエル人として集まって、安息日礼拝をしていました。けれども、彼らはそこに入れない人たちでした。当時の評価は、不潔で、嘘つきで、泥棒と言われていたそうです。何かものがなくなるとあいつらじゃないか、と言われたそうです。彼らは全く教育を受けてませんでした。彼らは法廷で証言する権利がなかったそうです。
神様がこの世界に福音を伝えようとされるときに、一番最初に選んだのが法廷で証言する権利がない人たちです。嘘つきだと見られていた、福音を伝えるには一番効果のない人たちにこの福音が伝えられました。神様らしいことです。
(10-11)
10,御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。
11,今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
今なら、情報を拡散するなら、影響力のあるインフルエンサーが発信するとか、大手メディアを使うとか、そのように権力とか能力とか影響力のある人たちを使うのが常識です。でも、神様を全く逆です。人口登録の時に彼らはカウントされませんでした。人間として数えられず発言も認められないような人たちに、まずこの福音が伝えらられました。
彼ら自身も、自分は認められる人間だとは思っていません。だから天からの光、栄光、身使いを非常に恐れたと書かれています
9,すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
神様の使いが自分のところになど来るはずはない、と思う人たちです。自己評価が低く、自分がだめな奴、と思う人たちです。でも、神様はそのような彼らを一番最初選んできてくださいました。
イエス様ご自身も彼らと同じになり、自分がまず、人間のいるところではなく家畜がいるような場所に身を置いてくださいました。その上で居場所がない人たちを選んで、「あなたがたのために救い主がお生まれになりました。」と伝えてくれます。
上流階級の人々ではなく、影響力のある人々ではなく、貧しい者、苦しい者、傷ついた者、捕らわれてる者のところに来てくださいました。追い出された者、邪魔にされている人たち、無視されている人たちのところにきてくださいました。
イエス様は彼らのところに行って、友達となり、実際に触れてくださいます。
イエス様の人生を読むといつもそうです。追い出された者、売春婦、罪人、汚れていると言われた病人たちと交わっていることがわかります。
そんなイエス様を上流階級の人たちは批判しました。『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』(マタイ11.19)
いつもヒソヒソと噂されました。あいつは罪人や売春婦と交わっている、と。
でも、これが神さまの願いでした。イエス様が来られるずっと前から預言されていたことです。
この後、ルカの福音書4章に進むと、イエス様が旧約聖書を読み、これが実現しました、と言われたことが書かれています。
ルカ4章
17,すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その巻物を開いて、こう書いてある箇所に目を留められた。
18,「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。
イエス様は追い出されたもののために来られました。卑しい者のために来られました。当時の羊飼いはまさにそのような人たちでした。
イエス様の母となったマリアもまた天使に出産することを告げられたとき聖霊に満たされて神様の言葉を語り賛美しました。その中でも低いものが高くされ、飢えた人が満足すると預言しています。
ルカ1章
52,権力のある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げられました。
53,飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせずに追い返されました。
マリヤは賛美の中で低いものが高くされ、飢えた人が満たされることを感謝しています。飢えたというのは文字通りの飢えもあるけど、心が飢えている、心が渇いている、そのような意味もあります。心が貧しい人、悲しむ人を選び、愛し、引き上げ、満たしてくださる救い主です。
コリント人への手紙1章に進むと、使徒パウロが同じことを言っています。
コリント1章
26,兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
27,しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。
28,有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。
羊飼いであることが恥ずべき職業だったわけではありませんが、でも当時としては最も卑しい仕事でした。羊の世話を週7日行う必要から、彼らは安息日を守ることができませんでした。この時代、ユダヤではパリサイ派が権力を持ち、律法を守る人たちが偉い人たちでした。そうなると、ますます羊飼いは軽蔑されるようになっていました。
でも、そんな彼らこそ神様がまず最初に福音を知らせたかった人たちです。
誰にも相手にされない、評価されない、底辺の人たちです。彼らは神にとって大事な大事な人たちでした。これが卑しい罪人を救う神さまです。聖書全体のメッセージがここにあります。
天使はいいます。
12,あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」
餌の台に寝ている赤ちゃんなんて見たことがないです。でも、これがあなた方のための印です。と言われました。あなた方を愛し、あなた方を選んで受け入れているしるしです。もし、救い主は王様の宮殿にいます。とか、救い主は、パイサイ派の学者の家に生まれた、と知らされたら、自分とは関係ない話だし行ってみようとも思いません。仮に、行ったとしても羊飼いたちは邪魔にされ危険視され追い出されるだけです。
ところがイエス様の人生は豪華な宮殿にも当時の権力にも関心がないかのようです。イエス様の関心はいつも居場所のない人、最も見下されている人、卑しい人、嫌われている人たちでした。彼らを真っ先に選び、知らせてくださいました。神様らしいことです。
今で言うなら、教会から1番遠くにいるような人を神様が選んでおられると言う感じがします。1番誘いたくないタイプの人たち選んでおられると思います。みんなが目を合わせたくないタイプの人たちを選んでおられると思います。僕らには出来ないことです。でも、これがイエス様の願いであり、イエス様が全てを捨てて闇の中に降りてきてくださった理由です。イエス様天から降り、孤独で、誰にも理解されない人の近くに来てくださいました。「泣く人と共に泣きなさい」とおっしゃるイエス様は口だけの人ではありません。本当にその立場になってくださいました。
●怖かった羊飼いたち
天からの栄光の光を見た時「非常に恐れた」とあります。
9,すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
なぜなら、神様の栄光、その光は聖なる光であって、自分の汚れや自分の醜さが明らかになってしまうからです。神の光は、すべての罪と悪をあらわにして燃やし尽くしてしまう力ある光です。栄光の前に立つことで恐怖におののくことは、神様に近づいた先輩たちはみんな同じ反応でした。預言者イザヤが神の幻を見たとき、彼は恐れていました。
イザヤ 6:5
そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。
私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。
しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」
彼は直ちに焼かれると思ったようです。
エゼキエルは神の栄光を幻で見たとき、彼はうつ伏せになりました。(エゼキエル書1章)
使徒ヨハネは、黙示録1章でキリストの栄光を見た時倒れて死人のようになってしまったとあります。
黙示録 1:17
それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。
神の栄光を見るとか、神様の臨在に近づくと、恐怖が起こります。
それは自分に罪があり、それを主が滅ぼしてしまうからです。だから怖くて近づけないのです。
聖なる神様と罪のある人間は近づけないのです。
アダムとエバも罪を犯した時から、神様を避けるようになりました。人は神様と近づけないのです。怖いのです。
※パトカーが隣に止まったら?みなさんどう思いますか?僕らは人を裁く権威を恐れます。
マタイ24章にイエス様が地上に来られる時、多くの人は悲しむと書かれています。
マタイ24章
30,そのとき、人の子のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。
そんな神さまの栄光が降りてきたのです。羊飼いたちは非常に恐れていました。彼らは殺される、と思ったかもしれません。
ところが、み使いは逆のことを言ってくれました。それは恐れではなく喜びの知らせ、平安の知らせでした。
10,御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。
11,今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
もし神が赦しと恵みと救いのために来ていないなら、恐怖でしかありません。
でも、イエス様は恵みのため、赦しのため、喜びのため、平安のためにきてくださいました。だから恐れる必要はありません、今日も言ってくださっています。
10,御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。
11,今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
これは罰のニュースでなく、呪いのニュースでなく、罪人が救われるニュースです。
「私はあなたたちに大きな喜びの良い知らせを持ってきたのです。」
永遠の苦しみである地獄へ落とすためにきたのではなく、僕らの罪を取り除くために来られたのがイエス様です。
「大きな喜びの良い知らせ」それは恐れの真逆です。
卑しい者、最も知識のない者、最も教育のない者、最も卑しい者、軽蔑された者、罪深き者の救いです。
地球上のあらゆる国々、あらゆる言葉、部族、国民の救い主です。彼は世界の救い主であり、あなたたちの救い主でもあります。
●適用 教会に対する激しい誘惑
不快な人を遠ざけようとする私たちの上から目線と罪深さが根強くあります。僕もその誘惑に合ってます。イエス様がこられたのは、家畜のいるところです。人間のいるところではありません。臭い服のまま、そのままで近づける場所に来てくださいました。
教会が、トラブルを起こさない人たちの交わり、いい人の交わりだったらイエス様の願いとは違います。ひねくれていて、いつもどうせ私なんてって言ってる人のための福音です。
昨日、集会で岳ちゃんがイスラエルのランプを当時の古代のランプを見せてくれました。家で実験したらススだらけで大変だったそうです。だから教会でやるのはちょっと、と言っていました。でも、火をつけてみると、わりときれいにつきました。昨日は。でも実際は、すすだらけでちゃんと火がつかなくてぐずぐずと煙ばっかり出る時もあるんだろう、と思います。イエス様はそんなくすぶるランプを見捨ることも消すこともない、と聖書はいいます。
イザヤ42.3
傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、真実をもってさばきを執り行う。
いつまでも煙ばっかり出してみんなに迷惑かけているような人を邪魔にすることも、消すこともなく、イエス様は彼らを愛し続けています。それがイエス様の心です。
イエス様は問題だらけで人が近寄らないような人のところに行ってくださいます。そして、恐れることはない、喜びを伝えに来たって言ってくださっています。これは神様の憐れみです。神様がさばかないことです。神様が受け入れてくださることです。イエス様ご自身が上からではなく、相手同じ立場になってくださいました。いや、もっと下になって、その人が救われるために、神の呪いを受ける側になってくださいました。イエス様はぐずぐず言ってる人を消すことがありません。見捨てることがありません。
特に僕が誘惑を感じているのはこの神様の願いを忘れることです。自分も昔は罪の中でもがいていたくせに、ひどい性格だったくせに、20年も牧師やっているといつの間にか傲慢になって、きよくて正しい人みたいな目線で、闇の中にいる人を見下ろし、孤独で交わりを恐れる人の気持ちがわかんなくなっちゃうということです。
牧師が教会が偉くなっちゃって、そういう一番遠い人の所の気持を軽んじ、無視し始めているなら、イエス様の教会ではなくなってしまいます。イエス様は誰よりも低く、じめじめしているのところに行って、恐れなくていい、救いが来た、平和が来たよって言ってくれているのにです。
今回、与えるクリスマスクリスマス、捧げるクリスマスを企画しました。
お腹いっぱいに美味しいものを食べて楽しんで、それでいて孤独な人、悲しむ人を無視するなら神様の願いとは真逆です。
今日も飢えていて、虐待されていて、心の傷、体の傷に苦しんでいる人たち、今日もミサイルに怯えている人たちのために、捧げようと決めたのは神様の願いだと思います。飢え渇いている人たちを真っ先に神様は見つけ出し、喜びと平安を伝えてくださいました。口だけでなく、イエス様は犠牲を払って彼らと連帯してくださいました。
僕らも今日、イエス様の心をいただいて、彼らと連帯しましょう。居場所のない人のクリスマスです。追い出されている人たちへの良い知らせです。それはイエス様が全てを捨てて、僕らの悲しみのどん底に降りてきてくださったことです。
あなたが伝えるべき、あなたが知らせにいくべき、あなたが愛して関わるべき人は誰でしょうか?
一番関わりたくない人は誰でしょうか。あなたが見下している人は誰でしょうか。
彼らを愛し、平和を告げる人、救いを知らせる人になりましょう。そう祈りましょう。
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