2024年3月31日日曜日

マタイ28.1-10 16-20 恐れてはならない  イースターメッセージ

 マタイ28.1-10 16-20 恐れてはならない  イースターメッセージ


●復活は恐れからの解放


僕らはいろんな苦しみに会います。そして恐れます。そしていろんな絶望を体験するし、もう無理だと思って諦めてしまうこともあります。サルーキーの歌、「復活進行」は聖書のメッセージを良く表しているな、って思います。


♪復活 それは一度ダメでも二度目があると言うこと

♪復活 それはダメなように見えてもその先があると言うこと


イエス様の拷問、そして十字架での処刑は誰が見ても終わりだと思いましたが、終わりではありませんでした。そしてイエス様の復活は僕らにも起こることです。僕らの絶望や苦しみがあります。経済的にもう無理だとか、夫婦、友人関係、親子関係もう回復が見込めない、健康を損なったとか。みなさんはいかがでしょうか?

もっと壊れた人がいます。イエス様の壊れ方は壮絶です。イエス様の絶望は死に方は悲惨です。なぜなら、神に捨てられたからです。


聖書は文脈で解釈するのが大事です。今日の箇所は28章で、その前の27章はイエス様の殺されるまでが書かれています。肉体的にも精神的にも虐待を受け、最後は公開処刑ですが、中でも最悪なのは、神に捨てられたことです。回復が望めない最大の理由は神に捨てられたからです。イエス様は「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。

イエス様が悲惨な最後を遂げたのは、人の罪のせいです。罪が原因で、神に呪われ捨てられ殺されました。だのに、復活しました。イエス様は復活して今生きています。教会が復活を教える理由は、信じる私たちもこの復活に参加するからです。


●復活は私たちも経験します。


(ローマ人への手紙 6章4~5節)

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。

私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。


イエス様を信じる人はこの復活をイエス様と一緒に共有する人です。バプテスマっていうのは一体化するとか浸される、繋がる、と言う意味があります。イエス様は人の罪のせいでどん底に落とされ、神の呪いを経験されました。そして私たちも人の罪のせいで、自分の罪のせいでどん底を経験しますが回復します。


イエス様はすべての権利、人権を剥奪されました。ゴミのように嫌われ捨てられました。それでも復活して威厳と栄光と力を持って復活され、それだけでなく、私たちに命を与える力を持っています。復活はイエス様だけの話ではありません。あなたもこの復活に共有するというのが聖書の教えです。キリストが苦しみの後で復活することは、私たちのお手本です。最初に神様が見せて下さった僕らのこれからの姿です。後で使徒パウロが何度もそれを説明しています。


(使徒の働き 26章23節)

すなわち、キリストが苦しみを受けること、また、死者の中から最初に復活し、この民にも異邦人にも光を宣べ伝えることになると話したのです。


(1コリント15章20節)

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。


キリストは最初です。次は私たちです。これは全ての人にとって光です。


今日、皆さんが乗り越えられない、あきらめかけている苦しみは何でしょうか?回復不能だと思っている事は何でしょうか?病気でしょうか。経済的な問題でしょうか。あの人との関係でしょうか。

イエス様こそが最悪な神に呪われた人になってくださいました。罪のせいで、惨めな恥ずかしい姿で捨てられて殺されました。誰もがもう終わったと思いました。それでも復活し、全てが逆転し、栄光と命を与える力を持っています。


●恐れてはならない 恐れの原因は罰


だから聖書は何度も恐れてはならない恐れてはならないと繰り返します。


(5節から6節)

御使いは女たちに言った。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。

ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。

今日の箇所で繰り返されているのは恐れることはない、です。


(10節)

イエスは言われた。「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」


恐れる必要ありません。聖書全体は恐れの原因は罰があることだと言います。


(ヨハネの手紙 第一 4章18節)

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。


人からの裁き、罰、評価があるから恐れます。神様からの罰、裁き、評価があるから恐れます。

悪いことが起こるのは、神が私に罰を与えているのからだ、と思う人は恐れます。あるいは他人が私を裁き、悪く言われるのを恐れます。人によっては自分で自分を責め、低く評価して恐れます。


人を裁き罰を与える権威を持った人が近づくと、私たちは恐れます。その実例が今日の箇所にあります。

まさに墓にいた兵士たちは恐れました。権威を持った主の使いを見たときに、恐ろしくて恐ろしくて震え上がり死人のようになったと書いてあります。


(2節から4節)

2,すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。

3,その姿は稲妻のようで、衣は雪のように白かった。

4,その恐ろしさに番兵たちは震え上がり、死人のようになった。


稲妻のように、フラッシュのような眩しい光がずっとそこにあり、完全な白い姿の主の使いがいました。しかも、大きな地震が起こりました。それを目の当たりにした兵士たちは怖くて怖くて倒れてしまいました。

単純に神の使いの姿がすごかったからでなく、そこには神様の裁きを予感させる恐れがありました。イエス様を拷問し、殺した三日後です。拷問と処刑は自分の担当ではなく、同僚だったかったかもしれませんが、でも、彼らはそれを知っていました。イエス様が死んだ時には全地が暗くなり地震が起こり、様々なことが起きたことを体験していました。彼らの隊長も、彼らも非常に恐れていました。上司が「この方は本当に神の子だった」言っているのも聞いていました。


(27章54節)

百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。「この方は本当に神の子であった。」


地震が起こり真っ白に輝く聖なる聖なる神からの使いが近いて来たときに、その圧倒的な聖さと権威の前dに兵士たちは怖くて震え上がりました。先ほどのみことばの通り、恐れる人とはは愛も赦しも知らない人です。


(ヨハネの手紙 第一 4章18節)

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。


恐れる人は評価と罰を怖がる人です。私は受け入れらないと感じるし、自分も自分を低く評価して責めている人です。人から悪く言われたことをまるで神のことばのように信じて受け止めてしまっている人です。

恐れると、人は逃げるか、隠れるか、落ち込むか、逆に怒るか、攻撃するか。いずれにしても良くないことをします。


怒る人、落ち込む人、逃げる人の心の奥には恐れや不安があり、もっと奥には罰や悪い評価や裁きあります。つまり、神様の愛を知らず、赦しを知らないから恐れます。怒ります。落ち込みます。逃げ出します。神学校の友人はギリシャ語の先生が近くに来ると目を逸らし、違うところに行きたくなる、と言っていました。いつも評価され、悪い点数をつけられているからです。裁きがあると恐れます。


他人からの言葉を神様のことばよりも重んじる人は恐れます。いつの間にか人の評価がまるで真実のようになって、自分を責め続ける人もいます。反対に喜びと平安とは受け入れられ愛されることです。神様の言葉は愛を伝え、赦しを伝え回復を伝えています。だから、開口一番神さまの使いは言います。


(5)

5,御使いは女たちに言った。「あなたがたは、恐れることはありません。


最悪の呪いをイエス様が成し遂げ、終えてくださいました。人が恐れる最悪の結果をイエス様が受けてくださいました。そして今度は全てを回復させ、新しくする復活を成し遂げてくださいました。裁きは終わりました。もう恐れなくて大丈夫です。前から言っておられた通り、よみがえられたのです。


(5-6)

5,御使いは女たちに言った。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。

6,ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。


これは僕らにも何度も言われて神様からのメッセージです。


人の罪のせい、自分の罪のせいで恐れます。親の罪のせいで、あの人のせいで人生がうまくいかなくなり、自分を嫌い、他人を嫌い、人とうまくなくなり、病気になったかもしれません。でも、もうそれは罪のせいではなくなったのです。キリストが十字架で全てを背負い、裁かれ、死んで、そして、今日、復活したからです。そしてあなた方も同じように復活にも参加するからです。


僕たちはイエス様と出会い、イエス様の復活を信じています。見て無いけど、心の目で見たんです。聞いてないけど、心の耳で全てが回復する復活の福音を聞いて信じたんです。私たちは見てはないけど、確かにイエス様を出会い信じました。


●この希望を伝えなさい


つながることをバプテスマといいます。共有するとか浸されるとか1つになると言う意味があります。だからイエスも信じた人は洗礼を受けなさいとおっしゃいます。


(18節から19節)

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。

ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、


イエス様に全ての力、権威があるから恐れる事はありません。イエス様の十字架による完全な罪の赦しがあるから今ある試練を恐れる必要がありません。回復があるから目の前の困難を恐れる必要がありません。


赦す権威、絶望から回復させる権威があります。状況を変える権威、私を変える権威があります。相手を変える権威はただイエス様が持っています。病気を癒す権威があります。悪霊を追い出す権威があります。全てがイエス様にあります。イエス様は生きています。一緒にいます。だから恐れる必要はありません。だから、イエス様の力によってイエス様の御名によってお祈りします。力はただイエス様にだけあるからです。


苦しみを喜びに変える力があります。闇を光に変える力があります。

死んでも終わりではありません。すべての人が終わったといっても終わりではありません。この地球が終わっても終わりではありません。


この絶対になくならない力を復活を回復をすべての人に伝えなさいといいます。全ての人がイエス様の弟子にしなさい、イエスを信じるものは死んでも知らないからです。ここにどんな闇の力も勝つことができない命の光がここにあるからです。だから洗礼をバプテスマを授けなさいと言います。バプテスマと言うのはつながること一体となることだからです


この世では回復を手に入れずに死んで行った先輩たちの実例がたくさん聖書にあります。ヘブル11章その実例です。それでも、先輩たちは復活と回復の希望を持っていました。どんな困難も回復させてくださる方です。どんな闇も光に変えてしまう方です。悲しみを喜びに変えてくださる方です。このイエス様と繋がるのがバプテスマです。バプテスマで終わるのでなく、すべてのことを守るように教えなさいといいます。


(20節)

わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」


それは単なる決まりを教えるとか、こうしなさい。ああしなさいではなくて、このイエス様の教え、ことば命令が命であり、光であり、愛だからです。困難を喜びに変えるからです。絶望を希望に変えるからです。喜びと平安を与えるからです。


聖書を読みましょう。毎日ディボーションしましょうといいます。これは圧力かけることでなく、私はダメなんだと思わせることではなくて喜びと希望と回復と力を与えることです。私はダメなんだと言う自己評価、もう無理だ、という諦めでなく、イエス様の権威によって全ては光に変えられることを毎日確認し、確信するためです。


恐れる人は神様のことばより自分の考えや人のことばを上にしている人です。だから、高ぶる人は低くされます。反対に自分を捨て、自分の思いを捨て、自分の考えを手放してイエス様のことばを聞く人は、高くされます。イエス様の教えは回復を与えるいのちのことばだからです。それは恐れを締め出し、回復をさせ、安心させる福音、良い知らせです。


だからイエス様はバプテスマを授け、すべてのことを守るように教えなさいといいます。これが、人の知恵や言葉にはよっらない命と回復だからです。イエス様の言葉を聞いて従うことによって、誰もが諦めたことが回復します。みことばに聞いて従うことなしに人の知恵や人の方法で回復しようとしても限界があります。


どん底を最高に変えてくださる方は今日も生きてます。全ての力を持っているイエス様が私たちと一緒にいます。


(20節後半)

見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」"


困難を見て退く必要はなくなりました。もう逃げなくて大丈夫です。もう互いに責め合わなくて大丈夫。もう攻撃しなくて大丈夫です。恐れなくていいからです。イエス様が死んで、復活して全てを解決しているからです。勝利しているからです。その復活に僕らも参加します。バプテスマされています。今苦しみにあっていても、その困難の先には復活があります。死んでも大丈夫す。どんなに悪く言われても大丈夫です。復活があります。ハレルヤ!


2024年3月28日木曜日

マタイ27.47-53

 マタイ27.47-53


すべての人が神の裁きを受けます。すべての人が「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と苦しみ叫びながら滅ぼされることになっていました。そんな僕らを見離さず、見捨てず、身代わりに呪われながら死んでくださったのがイエス様です。絶望の叫びはイエス様の叫びになりました。



(45-46)

45,さて、十二時から午後三時まで闇が全地をおおった。

46,三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。



聖なる聖なる神様に人は近づくことができません。神様はどんな小さな罪も汚れも嫌い、焼き滅ぼす方だからです。神様に近づくなら自滅します。ところが、そんな僕らをイエス様は救い、招き、神様と交わる道を作ってくださいました。それがイエス様の十字架での死です。



(50-51節)

50,しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。

51,すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。地が揺れ動き、岩が裂け、



天の神様は聖なる方、その住まいは聖なる家です。その聖さと美しさを地上で表すための神殿がありました。1番奥の部屋は最も聖なる部屋で、どんな汚れもない神様を表す場所でした。そこに入ることができるのは年に一度、大祭司だけです。全ての人の罪の身代わりに動物を殺し、その血を携えることによってのみ許可されました。



(ヘブル人への手紙 9章7節)

しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入ります。そのとき、自分のため、また民が知らずに犯した罪のために献げる血を携えずに、そこに入るようなことはありません。



血を流すことなしに立ち入ることを禁じるかのようにそこに仕切りの幕がありました。イエス様が十字架で殺された時、なんとその幕は上から下まで真っ二つに裂けました。(51)イエス様の血は「民が知らずに犯した罪のために献げる血」となり、全ての罪はきよめられ、仕切りの幕は不要になりました。この日から人は聖なる神様の住まいに入ることができるようになりました。神殿の幕が裂けたのは、神様と僕らが恐れなく、大胆に、自由に交わることができるようになったこと現れです。



(ヘブル人への手紙 10章17~20節)

「わたしは、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない」と言われるからです。

罪と不法が赦されるところでは、もう罪のきよめのささげ物はいりません。

こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。

イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。



もう神の裁きを恐れる必要はありません。死を恐れる必要もありません。イエス様が処刑されたときに多くの人たちが生き返って現れました。これは死後にもいのちがあり、神様との交わりが絶えることがないこと教えてくださるためでした。



(52節から53節)

52,墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。

53,彼らはイエスの復活の後で、墓から出て来て聖なる都に入り、多くの人に現れた。



死を恐れていた世界に革命が起きました。イエス様が新しい道を作ってくださいました。僕らは聖なる神様との交わりにもうすでに大胆に入っています。僕たちの体が、そして教会が、聖なる神様の住まいです。(1コリント6.19)この交わりは死んでもなくなることがありません。

神様に捨てられる叫びは終りました。僕らは聖なるものと呼ばれ、聖なる神様と交わっています。いや、それどころか聖なるイエス様の体の一部とか、枝とかさえ呼ばれています。安心しましょう。自分で思うよりももっとずっと聖なる人と呼ばれています。僕らの中に聖なる方が住んでいます。感謝しましょう。もう大丈夫です。ハレルヤ!

2024年3月27日水曜日

マタイ27.27-44

 マタイ27.27-44


ありえないほどの虐待、人格否定、暴力を受けて殺されたのがイエス様です。身体的にも精神的にも社会的にも全てが剥奪され抹殺されました。これは、罪のある人間が受けるべき神の裁きです。罪のない聖なる神様の子が、汚れた罪人のように扱われています。聖書はそのイエス様の苦しみをいつも思い出すようにと言います。



(27-31)

27,それから、総督の兵士たちはイエスを総督官邸の中に連れて行き、イエスの周りに全部隊を集めた。

28,そしてイエスが着ていた物を脱がせて、緋色のマントを着せた。

29,それから彼らは茨で冠を編んでイエスの頭に置き、右手に葦の棒を持たせた。そしてイエスの前にひざまずき、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、からかった。

30,またイエスに唾をかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたいた。

31,こうしてイエスをからかってから、マントを脱がせて元の衣を着せ、十字架につけるために連れ出した。



これはイエス様が「自ら」(1ペテロ2.24)僕らの罪と神の怒りを背負うためにされた「身代わり」だと聖書はいます。(1ペテロ3.18)



(ペテロの手紙 第一2章24節)

ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。

キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。


(ペテロの手紙 第一3章18節)

キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。



当時、死刑囚の苦しみを和らげるぶどう酒を飲ませるのが一般的でしたが、イエス様は飲みませんでした。



(34)

彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。



聖なる方は罪人の代表として十字架の上にされされ、並べられて笑われます。



(38-44)

38,そのとき、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右に、一人は左に、十字架につけられていた。

39,通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。

40,「神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」

41,同じように祭司長たちも、律法学者たち、長老たちと一緒にイエスを嘲って言った。

42,「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。

43,彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」

44,イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。



ただ黙ってこの苦しみを忍耐され死刑に従われたのは、その先に復活があり、僕ら罪人の赦しがあるからです。そしてまた、イエス様を信じた僕らも同じように他人の罪のために忍耐することがあります。それはイエス様の苦しみと忍耐に連帯することだし、しかも神様に喜ばれることだと聖書は言います。(1ペテロ2.19)



(ヘブル人への手紙12章2~3節)

信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。"



(1ペテロ2.19-21)

19,もしだれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです。

20,罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。

21,このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。



裁く権威のある神様が、裁かれる側になって忍耐し愛し赦しててくださいました。そのイエス様を信じた時から僕らもイエス様と一緒に自分を捨てることができるようになりました。肉の欲は自己主張をし、権利を主張し、自分の正しさを主張します。でも、イエス様は自分を捨て、敵を赦し愛する忍耐を与えてくださいます。今日も反抗を耐え忍ばれたイエス様のことを考えて歩めますように。自分が上に行くのではなく、人を生かすために全てを手放して苦しみ、忍耐してくださったイエス様に倣うことができますように。