2024年6月3日月曜日

出エジプト40.16-38 神の臨在と栄光に満ちる私たち

 出エジプト40.16-38 神の臨在と栄光に満ちる私たち


●イントロ 


僕らは神様の栄光とご臨在を表す教会、そして個人になります。


今日の箇所はモーセの時代、今から3500年くらい前何もない荒野で神様とお会いする幕屋を作りなさい、と神様は言われてその通りに幕屋を作り完成した箇所です。

神様が愛する人々の真ん中に住み、一緒にいるための幕屋です。そして、神様の栄光、神様がここにおられる、ということがはっきりわかる幕屋となりました。


(34-35)

34,そのとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。

35,モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。


ただのテントではなく、ただの備品でなく、誰が見ても神様の栄光が、力が、光が満ちている、そのような場所になりました。


神様は、今日も同じように上から見下ろすのではなく一緒に住みたい、ただ中に住みたい、語り合いたい、と願っておられます。僕らを天幕として栄光とご臨在を表したい、と願っている神様です。


新約聖書の時代は僕らの体も心も神様の天幕です。そして教会も神様の天幕です。


コリント人への手紙 第一 3章16節

あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。


(エペソ2.21-22)

この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。


僕らの体が、そして教会が、この時と同じように神様の栄光と命が溢れるように願って、そうなっていくことを信じてメッセージします。誰が見ても、神様がここにおられることがわかる人、そして教会になると信じます。


●神様を裏切ってからのやり直し


みことばの光の通読箇所に沿って毎日聖書を読むことをお勧めしています。これはルールではないけど、僕がその箇所から日曜にお話ししているので、予習復習になって礼拝での理解と喜びがもっと深くなると思うからです。お勧めします。


25章からずっと神様は材料と設計図を与えます。神様を礼拝し、神様と交わる聖所を作るための設計図です。神様が住み、人間が神様とお会いし、神様の命と栄光を表す場所です。その形が細かく25章から31章まで続きました。そして、また同じ話、同じ寸法、同じ設計図が35章の4節から40章の最後まで続きます。


なんで、同じ話が続くのかな?と思うかもしれませんが、最初にこのように作りなさい、と言われた時と、2回目に言われた、その真ん中に神様を侮辱する大事件が起こりました。

今日の箇所は神様を裏切り侮辱した後の話です。

モーセが山に登いる間に、彼らは金で子牛を作ります。そして、自分達を救ってくれたのはこの金の牛だ、と言い始めます。


神様は怒り悲しみ、彼らを「絶ち滅ぼす」とおっしゃいました。モーセは必死で祈ります。平伏して赦しを求めます。それで神様は思い直してくださいました。「絶ち滅ぼす」の意味は全員殺すことです。もう神様の幕屋もナシ、全部なし、終わりです。


モーセは自分の命をかけて平伏して懇願し、彼らはもう赦されました。

赦されたんだけど、神様はもう一緒には行かない、行けないと言われました。どうしてでしょう?

それは、神様が汚れた人たちと一緒に行くなら、途端にその人たちを殺してしまうからです。

33章になって神様はおっしゃいます。


(出エジプト記 33章3節)

乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。」


神様が一緒にはいかない理由は「途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするため」です。33章5節でも繰り返します。


(33章5節)

5,主はモーセに次のように命じておられた。「イスラエルの子らに言え。『あなたがたは、うなじを固くする民だ。一時でも、あなたがたのただ中にあって上って行こうものなら、わたしはあなたがたを絶ち滅ぼしてしまうだろう。


神様は聖なる神様です。水と油が共存できません。同じように光と闇は共存できません。

罪人と聖なる神は共存できません。神様は偶像を拝む人をたちまち滅ぼしてしまう神様です。

そんな彼モーセはもう一度お願いし、祈ります。


(33章15節)

モーセは言った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。


もし神様が一緒に行ってくださらないなら、モーセは人々を導くことができません。

モーセはそもそも最初から私にはできませんと言い続けました。私には何もありません。私は口下手です。私には荷が重いのですと言い続けたモーセです。それでも神様が一緒にいてここまで導いてくださいました。だのに、神様を侮辱し裏切る人々です。モーセはこのガンコな人たちを導くことはできません。

だから「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。」(15)とモーセは願います。この人たちから離れないでください、憐れんでください。必死に祈ります。


(34章9節)

彼は言った。「ああ、主よ。もし私がみこころにかなっているのでしたら、どうか主が私たちのただ中にいて、進んでくださいますように。


聖なる神様と罪がある僕らが交わることができないのは今も同じです。モーセが祈ってくださったように、今日もイエス様が今日も祈り、赦してください、と願ってくださっています。

僕らが今日、神様の前に礼拝し、祈ることができ、神様の近くにいることができ、僕らの中に聖霊が住んでくださるのは当たり前ではありません。


たちまち滅ぼしてしまう神様の怒りを、僕らでなくイエス様が受けて呪われ、殺され、捨てられました。罪人が滅ぼされる役目をイエス様が引き受けてくださったから、だから今、僕らは神様と交わり、祈り、賛美することができます。殺されることなく、受け入れられ祈りが聞かれています。これはイエス様が流された血によります。イエス様の十字架の血をだけが僕らが受け入れられる理由です。


だから、僕らは祈る時いつもイエス様の名前を通して祈ります。僕の祈りだけど、イエス様の名前によって祈ります。イエス様の十字架を通さないと、あの十字架の犠牲がないと、聖なる神様に祈ったり交わったり一緒にいることができないからです。汚れた人が神様に近づくなら滅ぼされてしまうと聖書は繰り返します。


僕らは今日、聖餐式をします。イエス様の十字架の恵みをもう一度思い出すためです。

モーセの祈りは聞かれました。一緒に行かない、あなた方を殺してしまうから、とおっしゃた神様がもう一度一緒にいてくださり、その栄光を表してくださったのが、35章から最後までです。


39章も40章にも何度も何度も、主が言われた通りにした、その通りにした、言われた通りにした、と繰り返しています。36章から40章まで長く丁寧に幕屋の作り方が繰り返し記録されています。神様の願い通りかどうか確認し、まるで検品するようです。イスラエル人がすぐに神様を軽んじ、神様の言われたことから離れて裏切る人たちだからこそです。本当に神様の言われた通りにした、と確認するように書かれています。


(39章32節)

32,こうして、会見の天幕である幕屋のすべての奉仕が終わった。イスラエルの子らは、すべて主がモーセに命じられたとおりに行い、そのようにした。


(39章42-43節)

42,イスラエルの子らは、すべて主がモーセに命じられたとおりに、そのとおりに、すべての奉仕を行った。

43,モーセがすべての仕事を見ると、彼らは、見よ、主が命じられたとおりに行っていた。そこでモーセは彼らを祝福した。


今日読んだ40章も何度も「主がモーセに命じられたとおりである」と何度も何度も繰り返します。


(16)

モーセは、すべて主が彼に命じられたとおりに行い、そのようにした。


(18-19)

18,モーセは幕屋を設営した。まず、その台座を据え、その板を立て、その横木を通し、その柱を立て、

19,幕屋の上に天幕を広げ、その上に天幕の覆いを掛けた。主がモーセに命じられたとおりである。


●幕屋の備品の意味


その一つ一つに神様のご性質、そして、この幕屋の1500年後くらいに地上に来られるイエス様の恵みがもう現れています。一つ一つその意味を見ていきたいです。一つ一つに神様と交わり一緒に住むことの生活が現れています。


①神の言葉とそれを遮る蓋と幕(契約の箱と宥めの蓋と幕)

②いのちのパン(机とパン)

③いのちの光(燭台と灯火)

④祈りと賛美(香をたく祭壇)

⑤イエス様による犠牲 賛美(入口の祭壇)

⑥罪の洗い、日々の悔い改め(洗盤)


①神の言葉とそれを遮る蓋と幕(契約の箱と宥めの蓋と幕)


(20-21)

20,また、さとしの板を取って箱に納め、棒を箱に付け、「宥めの蓋」を箱の上に置き、

21,箱を幕屋の中に入れ、仕切りの垂れ幕を掛け、あかしの箱の前をさえぎった。主がモーセに命じられたとおりである。


さとしの板とは神様のことばです。それを入れた箱がこの幕屋の中心でした。神様のことばが幕屋の一番奥の聖なる場所にあるものです。人の考えとか、人の意見でなく、神様の意思であり願いです。神様の言葉は事実となるし、命となります。神の言葉は命そのものです。イエス様のことを聖書は「いのちのことば」言い換えます。(1ヨハネ1.1)また「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」とヨハネの福音書は最初に宣言します。


神様の住まいの一番大事な一番奥には神様のことばがあります。そしてそのことばの箱の上に「宥めの蓋」があります。この箱の上、宥めの蓋のところから、神様は語られます。


(25章22節)

『宥めの蓋』の上から、あかしの箱の上の二つのケルビムの間から、ことごとくあなたに語る。


神様のことばには力があって、もし汚れた人がそこに近づくなら死んでしまいます。神のことばは人を生かすけど、罪のある人を殺してしまうことばでもあります。だから宥めが必要でした。神様の言葉には「宥めの蓋」がされていました。危険だからです。憐れみの座とも言われる蓋です。


21,箱を幕屋の中に入れ、仕切りの垂れ幕を掛け、あかしの箱の前をさえぎった。主がモーセに命じられたとおりである。


神様の言葉に触れて人が死ぬことがないようにあかしの箱の前を遮った、とあります。まるで危険区域につき立ち入り禁止のようにです。ここに近づくのは大祭司だけ、年に一回だけ、とレビ記に書かれています。しかも、動物を殺し、その血を携えている時だけ、近づくことができたし、大祭司は殺されることがありませんでした。

神様の幕屋は聖なる場所です。汚れた人はそこに近づけない場所です。近づくことができない聖なる言葉が中心です。人を殺してしまう聖なる言葉が中心です。

その神様の言葉を聞くためには、神様の怒りの宥めが必要です。生贄として、命が捧げられることが必要でした。


そして、イエス様が来られたとき、十字架で血だらけになって生贄としてご自分を捧げた時、聖書は、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた、とあります。(マタイ27.51)

イエス様の血によって、犠牲によって神様と人を遮っていた幕は裂かれ、罪人にとって危険だった神様の言葉に僕らも近づくことができるようになりました。人を殺してしまう聖なる神の言葉が、イエス様によって、僕らの心の板に書き記されるようになり、僕ら自身が神様の言葉を運ぶキリストの手紙となりました。(2コリント3.3)


②いのちのパン(机とパン)


(22-23)

22,また、会見の天幕の中に、すなわち、幕屋の内部の北側、垂れ幕の外側に机を置いた。

23,その上にパンを一列にして、主の前に並べた。主がモーセに命じられたとおりである。


この会見の天幕は神様との交わりの場所です。そして、天国の写しであり影のようだ、と聖書は言います。新約聖書は僕らの体が聖霊の住まい、そして教会が神様の家だと言います。この幕屋にはパンがありました。イエス様は「わたしが命のパンです」とおっしゃいます。僕らは食べないと死んじゃいます。同じように、イエス様は永遠の命を与えるパンのようです。イエス様と交わることは、神様のいのちと交わることです。イエス様こそが僕らに必要なパンです。


今日聖餐があります。イエス様はパンを裂き、これはわたしの体です、とおっしゃいました。

パンを食べることは、イエス様が僕らの体に住んでおられることの表れです。イエス様が命のパンです。イエス様と交わり、祈り、言葉を聞くことは、命のパンを食べることです。人はパンだけで生きているのではく、神様の言葉を食べることで、霊的に生きています。


③いのちの光(燭台と灯火)


(24-25)

24,会見の天幕の中、机の反対側、幕屋の内部の南側に燭台を置き、

25,主の前にともしび皿を掲げた。主がモーセに命じられたとおりである。


そして、イエス様は「わたしは世の光です」と言われます。イエス様と交わることは僕らが光に照らされることです。イエス様は「わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」とおっしゃいます。(ヨハネ8.12)イエス様に祈り、ことばを聞き、従い、賛美をする時に、天からの光が注がれていることをぜひイメージしてください。会見の天幕の光は、イエス様の光を表しています。また、この燭台の油は聖なる油を使いました。これは僕らに注がれる聖霊をあらかじめ表しています。神様と交わることは、光に照らされ、聖霊に満たされることです。


④祈りと賛美(香をたく祭壇)


(26-27)

26,それから、会見の天幕の中の垂れ幕の前に、金の祭壇を置き、

27,その上で香り高い香をたいた。主がモーセに命じられたとおりである。


会見の天幕での香は祈りを表しています。祈りは神様にとって香ばしい香りだと言います。リビングバイブルは神様が「この香りが大好きだ」とおっしゃってるように訳します。喜ばれるささげものは僕らが祈ること、感謝すること、賛美することです。神様と一緒に住む場所は神様の喜びである祈りが満ちた場所です。「この香は聖徒たちの祈りである。」(黙示録5.8)喜ばれる祈りを今日もささげましょう。


⑤イエス様による犠牲 賛美(入口の祭壇)


(28-29)

28,また、幕屋の入り口に垂れ幕を掛け、

29,会見の天幕である幕屋の入り口に全焼のささげ物の祭壇を置き、その上に全焼のささげ物と穀物のささげ物を献げた。主がモーセに命じられたとおりである。


会見の天幕の入り口の前に、大きな祭壇があります。祭壇とは巨大なBBQコンロのようなものです。

神様とお会いするには、まず、動物が殺され、そこで命を捧げ、焼かれて捧げられる必要がありました。

これは、イエス様が十字架で殺され、捧げられたことをあらかじめ表しているかのようです。

罪人が神様に赦されて近づくためには、身代わりの命が必要だったことを表しています。イエス様の犠牲によって僕らは完全に受け入れられています。

また、煙になるまで焼き尽くすことは献身を表しています。完璧に自分を捨てて献身してくださったのはまずイエス様です。

今、僕らは動物を殺すことはしません。神様にささげる生贄は賛美だと聖書は言います。


(ヘブル 13:15

ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。


⑥罪の洗い、日々の悔い改め(洗盤)


(30-32)

30,また、会見の天幕と祭壇との間に洗盤を置き、洗いのために、それに水を入れた。

31,モーセとアロンとその子らは、それで手と足を洗った。

32,会見の天幕に入るとき、また祭壇に近づくとき、彼らはいつも洗った。主がモーセに命じられたとおりである。


そして、祭司は神様に近づいて奉仕する前には、手足を洗いました。まるで罪を清めるかのように、毎回水で洗いました。僕らが神様に近づける理由は、イエス様が子羊として血を流し、殺され犠牲となってくださったからです。それでも毎日罪が出てしまいます。失敗するたび、罪を犯すたびに、それを告白して悔い改めて捨てていく、毎日です。祭司たちは毎日手足を洗ったように、僕らも毎日のように罪を告白して、清められ続ける必要があります。

ちゃんと告白し、悔い改め、やり直す事は神様に喜ばれる尊いささげものです。「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。」(詩篇51.17)


●ご臨在と栄光を表す幕屋


そのように、神様の願った通りの幕屋ができました。その時に神様の栄光は現れました


(40章34節から35節)

34,そのとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。

35,モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。


今も神様の願いは、今日も僕らが神様の思い通りの家を作ることです。

神様の栄光はどうしたら表されると思いますか?形ばかりの礼拝でなく、神様の命と栄光に溢れた礼拝になるにはどうすればいいと思いますか?


今日の箇所は何度も何度も「主が命じられた通りにした」と繰り返しています。神様の命じられた通りに従うことです。つまり、自分の計画も、計算も捨てて、自分を捨てることです。自分のデザインや好きな形を手放すことです。実際、自分の好みにこだわる自分は死んだと思いなさい、と聖書は言います。


(ガラテヤ2章19-20)

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。


(ローマ6:8)

もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。


イエス様の命が溢れ、イエス様の栄光が溢れた人生になるには、キリストと共に毎日死ぬことが大事です。主の祈りを毎日祈るのは大事です。「み心が天で行われるように地でも行われるように」と祈ります。つまり、「僕の思い通りにならないようにしてください。神様の願い通りにしてください」と祈り続けることです。自分を捨てる祈りをし決断をして従う時、それは惨めな死人になるのではなく、逆にキリストと共に生きる、キリストの栄光と愛と力が、キリストの命が溢れた人になります。


自分の計画とか計算にこだわるあなたは死にました。今は、神様の御言葉の通りに栄光を表す人です。

神様のお気に入りの私になり、教会になることです。神様の栄光は自分を手放して従う時に明らかになります。


人々はこの後、いつも宿営の真ん中に神のご臨在を見ました。いつも彼らの真ん中には幕屋がありその上には雲の柱がありました。神様がいつも中心でした。旅立つ時には、神様がいつも先頭に立って導いてくれました。


(36-38)

36,イスラエルの子らは、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。

37,雲が上らないと、上る日まで旅立たなかった。

38,旅路にある間、イスラエルの全家の前には、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があった。


※聖書を実際に再現したCGのイメージ動画はこちらです。

https://www.youtube.com/watch?v=7K8faUuCD2Y&t=146s


神様の雲が動いた時に人々はそれに従って旅立ちました。旅の中心にいつも神様がいました。それは今も同じです。僕らの中に、この交わりの中に神様が栄光とご臨在を表しておられます。


僕らは天と繋がっているし、神様が一緒にいてくださっています。僕ら自身が、教会が栄光に満ちた幕屋として、神様の力と臨在が表されるように求めましょう


幕屋は荒野のど真ん中に作るように言われました。あらゆる敵に囲まれ、罪が満ちた世界です。そのど真ん中でも神がいてくださいます。神様の確かな導きがあります。神様は私たちと共に歩んでくださいます。神様が進むときに私も進みます。


自分の考えでなく、神様の方法で、神様の形に作ってもらいましょう。

僕らが幕屋です。神様のご臨在はここにあります。ますます、神様の言われた通りにきよくなり、栄光を表していくものです。

命じられた通りに、自分を捧げましょう。神様の幕屋として自分を捧げる時に、主の臨在は表されます。ハレルヤ!


0 件のコメント:

コメントを投稿