2024年6月4日火曜日

ガラテヤ1.1-10

 ガラテヤ1.1-10


神様から離れた人はみんな欠乏感を持っていて、人から愛されることで満たされたい、承認されることで満足したい欲求を持っています。聖書はこの時代を「悪の時代」と言います。(4)聖書が教える悪とは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、自分では知者であると思い、自分への賞賛を求め、満たされようとすることです。(ローマ1.21-25)


最初に悪魔は人を誘惑しました。まるで神になれるかのようにダマしました。(創世記3.5-6)だまされた人は神様をほめたたえるよりも、自分がいかに賢いか、良い人かなど、人からの賞賛を求めます。それが「悪の時代」です。(4)自分の知恵を求めても、またそれで賞賛されようとしてもそこに満足はありません。ちょっといい気持ちにさせてくれるかもしれませんが、それは儚く消え、すぐにまた渇きます。イエス様はそんな泥沼の悪から僕らを救い出してくださいました。



(4-5節)

4キリストは、今の悪の時代から私たちを救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださいました。私たちの父である神のみこころにしたがったのです。

5この神に、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。



イエス様は自分を生かすのではなく、他人が救われるためにその罪を背負って自分を犠牲にし、捨てられ殺される道を選ばれました。自分を高くしようとする人とは間逆です。ここに本物の愛があります。栄光はイエス様のもの、そして神様のものです。「この神に、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。」(5節)


キリスト教の中にも神様の栄光よりも人間の知恵とか賢さを重んじる悪が入り込みます。「ナントカ先生素晴らしい!」と賞賛し、まるで教祖のように従っていくこともある話です。教師側も「先生ー!いいお話でした♡」などと言われて満足する誘惑にいつもさらされています。もしそれを求めているならもはや「キリストのしもべではありません。」(10)使徒パウロは徹底的にそれを否定します。パウロが使徒とされたのは彼の権力にも能力によりません。ただ神様がその役目を与えてくださっただけです。



(1節から2節)

1人々から出たのではなく、人間を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によって、使徒とされたパウロと、

2私とともにいるすべての兄弟たちから、ガラテヤの諸教会へ。



自分になびかせる教えを伝えているニセ教師がガラテヤ教会にいました。その人はキリリストのしもべではありません。むしろ、「のろわれるべきです」と聖書は断言して繰り返します。



(8-9)

8しかし、私たちであれ天の御使いであれ、もし私たちがあなたがたに宣べ伝えた福音に反することを、福音として宣べ伝えるなら、そのような者はのろわれるべきです。

9私たちが以前にも言ったように、今もう一度、私は言います。もしだれかが、あなたがたが受けた福音に反する福音をあなたがたに宣べ伝えているなら、そのような者はのろわれるべきです。



賞賛され、賛美され、栄光を受けるのは神様だけです。ご機嫌をとって人から喜ばれようとし、自分の栄光を求め、神様のことばを曲げているなら、その人はのろわれるべき存在です。



(10節)

10今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。



「御名があがめられるように」「御名が聖なるものとされますように」と祈るようにイエス様はおっしゃいます。(マタイ6.9)「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。」と聖書は祈ります。悪魔は人を今も誘惑しています。神様ではなく人の賞賛を求め、イエス様の恵みではなく、人の行いに重きを置くようにです。あなたは賢い、こうすればうまくいく、とです。今日も神様の栄光だけを求めましょう。「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ローマ11.36)




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