2サムエル23.8-12
クリスチャン生活は「ほどほどに」「疲れない程度に」と言う人がいますが、イエス様は反対に『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』とおっしゃいます。これが「重要な第一の戒めです。」(マタイ22.37-38)神様を愛するゆえに疲れ果て、力が尽き果てることは良いことのようです。
もちろん、カルトのように恐怖で縛られて自由意志や判断力を奪われることとは違います。神様への献身は、聖霊によって与えられる愛と平安と自由と喜びがセットです。神様が一緒にいることの確信の中で力を尽くして戦い続けた勇士たちのことが書かれています。神様は彼らを喜び、大勝利を与えてくださいました。
(サムエル記 第二 23章8~12節)
ダビデの勇士たちの名は次のとおりである。補佐官のかしら、タハクモニ人ヨシェブ・バシェベテ。彼は槍を振るって一度に八百人を刺し殺した。
彼の次は、アホアハ人ドドの子エルアザル。ダビデにつく三勇士の一人であった。彼らがペリシテ人をそしったとき、ペリシテ人は戦うためにそこに集まった。イスラエル人は退いたが、
彼は立ち上がり、自分の手が疲れて、手が剣にくっつくまでにペリシテ人を討った。主はその日、大勝利をもたらされた。兵たちが彼のところに引き返して来たのは、ただ、はぎ取るためであった。
彼の次はアラル人アゲの子シャンマ。ペリシテ人が隊をなして集まったとき、そこにはレンズ豆が豊かに実った一つの畑があった。兵はペリシテ人の前から逃げたが、
彼はその畑の真ん中に踏みとどまってこれを守り、ペリシテ人を討った。主は大勝利をもたらされた。"
神様に信頼して力を使い尽くす事は神様にとって喜びであり、その人にとっても喜びです。もちろん苦しいのですが、そこには天国から注がれる喜びがあります。
ところで、敵をどんどん殺していく記事に「ん?」と思う人は多いと思います。ダビデの時代には神様は偶像を拝み地を汚す人たちを絶滅するように命令されています。彼らはそれに従順でした。それから約1000年後、イエスキリストが来られ、全ての人のすべての罪を背負って、十字架の贖いときよめを成し遂げられたした。
それ以降、イエス様は敵を滅ぼすのではなく、逆に「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」とおっしゃいます。(マタイの福音書 5章44節)イエス様による救いは、国籍や人種に関係なく、過去の罪に関係なくすべての人に及ぶようになりました。イエス様は争わず、戦わず、むしろ福音のために全ての人に優しくしなさいといいます。その理由は悪魔に縛られて滅びに向かっている人たちを救い出すためです。
(テモテへの手紙 第二 2章24~26節)
主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍耐し、
反対する人たちを柔和に教え導きなさい。神は、彼らに悔い改めの心を与えて、真理を悟らせてくださるかもしれません。
悪魔に捕らえられて思いのままにされている人々でも、目を覚まして、その罠を逃れるかもしれません。
今日、僕らが力を尽くして戦うべき相手は悪魔です。イエス様は「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。」と言います。(マタイ10.28)ダビデの時代のあの勇士たちのように、心も力を尽くして踏みとどまり、罵られても、脅されても、悪に対して善で返すことは信仰の戦いです。(1ペテロ3.9)それは神様に喜ばれます。「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」(ヘブル人への手紙10章39節)神様は一緒にいてくださいます。神様に従うことは勝利が約束されています。
(ヤコブの手紙 4章7節)
ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。
(ヨハネの黙示録 2章10節)
死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える。
今日も神様を愛するため、従うために力を全部使い尽くしましょう。ほどほどでなく、疲れない程度でなく、主のため使い果たすことは何よりも価値のある永遠の冠に至る道です。倒れても大丈夫です。苦しいけど、その喜びと約束はなくなることはありません。僕らが預かっている時間も力も持ち物も、全部が神様のためです。使い果たしましょう。大丈夫です。ハレルヤ!
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