イザヤ10章
どうしてこの世界に悪や悲惨なことがあるの? 神様がいるならなぜ? よくある質問です。まず、神様はこの世界を非常に良いものとてお造りになりました。「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。」とあります。(創世記1.31)悪や悲しみは神様の意図ではありません。
でも、人間側は神様から離れました。罪とは神様から離れることです。神様と関係なしに自分の判断と自分の力で生きようとする傲慢さの結果、僕らは苦しむことになりました。戦争も、異常気象も、不正や搾取も全部、人間が勝手に生きている結果です。
神様はそんな世界を見放さず、もう一度回復させようとなさっています。まず最初にイスラエルに神様の言葉を与え、神様と一緒に歩む祝福の国にしようとしました。…だのに、彼らもまた神様に反抗し、自分勝手な道を選びます。その結果は悲惨です。
(イザヤ書 10章2~4節)
彼らは弱い者の訴えを退け、私の民のうちの貧しい者の権利をかすめる。こうして、やもめは彼らの餌食となり、みなしごたちは奪い取られる。訪れの日、遠くから嵐が来るときに、あなたがたはどうするのか。だれに助けを求めて逃げ、どこに自分の栄光を残すのか。ただ、捕らわれ人の足もとに膝をつき、殺された者たちのそばに倒れるだけだ。それでも御怒りは収まらず、なおも御手は伸ばされている。
イスラエルも、そして僕らも最後に神様の裁きに会います。この当時イスラエルはアッシリアと言う世界最強の国に滅ぼされました。この時のアッシリアは神様の怒りと裁きの道具です。ところがアッシリアもまた神様は知らず、高ぶって「私は自分の手の力でやった。私の知恵でやった。私は賢いからだ。」と威張り、自分の力でイスラエルを滅ぼしてやったと自慢します。(13-14)
(イザヤ書 10章5~7節)
「ああ、アッシリア、わたしの怒りのむち。わたしの憤りの杖は彼らの手にある。
わたしは、これを神を敬わない国に送り、わたしが激しく怒る民を襲えと、これに命じる。物を分捕らせ、獲物を奪わせ、道端の泥のように、これを踏みにじらせる。
しかし、彼自身はそうとは思わず、彼の心もそうは考えない。彼の心にあるのは滅ぼすこと、少なからぬ国々を絶ち滅ぼすことだ。
(イザヤ書 10章13~14節)
それは彼がこう言ったからである。「私は自分の手の力でやった。私の知恵でやった。私は賢いからだ。私が諸国の民の境を取り払い、彼らの蓄えを奪い、全能者のように住民をおとしめた。
私の手は、諸国の民の財宝を巣のようにつかみ、私は、見捨てられた卵を集めるように地のすべてのものを集めたが、翼をはためかす者も、口を大きく開ける者も、鳴く者もいなかった。」
どの国も神様から離れて、自分たちの力で生きているかのように誤解しています。まるで、人間が作った道具が人間に対して威張っているかのようです。
(イザヤ書 10章15~16節)
斧は、それを使って切る人に向かって高ぶることができるだろうか。のこぎりは、それをひく人に向かっておごることができるだろうか。それは、むちが、それを振り上げる人を動かし、杖が、木ではない人間を持ち上げるようなものではないか。
それゆえ、万軍の主、主はその最も肥え太った者たちをやつれさせ、その栄光のもとで、炎が燃え上がる。
神様は神様から離れた人たちを怒り、さばきます。それは彼らが悔い改めて神様に戻るためです。人数は少ないけど、悔い改めて神様に戻る人たちがいます。戻る人たちを「残りの者」「逃れの者」と聖書は言います。裁かれずに救われる人たちのことです。(20)
(イザヤ書 10章20~22節)
その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家の逃れの者は、もう二度と自分を打つ者に頼らず、イスラエルの聖なる方、主に真実をもって頼る。残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る。
たとえ、あなたの民イスラエルが海の砂のようであっても、その中の残りの者だけが帰って来る。壊滅は定められ、義があふれようとしている。
この世界の悪や悲惨なことは神様に戻るためのものです。その苦しみが神様から離れているゆえだと認めて立ち返ることです。それでも、戻ってくる人数は少ないようです。イエス様は「わずかです」と言われます。
(マタイの福音書 7章13~14節)
狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。
いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。
神様は「すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」(1テモテ2.4)苦しみや悲しみは僕らが神様から離れて傲慢になっているゆえです。今日、神様に戻りましょう。神様は僕たちを滅ぼすのではなく回復させ祝福しようと願っておられます。
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