2024年9月19日木曜日

イザヤ6.1-7

 イザヤ6.1-7


美しくて性格も良くて能力もある人と近づくと、自分がいかに劣っているかを見せつけられるようでその場にいづらくなったりします。もし立派で美しい人でさえそうなら、神様と近づく時にはどうなるかと思います。実際に預言者イザヤは神様を仰ぎ見た時に「ああ、私は滅んでしまう。」と恐れました。(5)神様は、汚れたものを嫌い、憎み、怒り、滅ぼし、消し去ってしまいます。


神様の聖さは異次元です。人が絶対に近づくことのできない世界です。近づくなら滅ぼされてしまいます。僕らは神様と離れ、人と比べあってどっちが正しいかと言いますが神様の前では低俗すぎる比較です。圧倒的な神様の前では人間の聖さや正しさは意味がありません。


神様はこの世界を滅ぼし尽くします。住宅修理のように一部だけ直すのではありません。全部壊して更地にします。神様は御心に沿った、聖なる、完全な国を造る方です。僕らの中に使えるところは1つもないからです。イザヤは目が開かれたときに、神様の世界を見て圧倒されました。



(イザヤ書 6章1~4節)

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。その裾は神殿に満ち、

セラフィムがその上の方に立っていた。彼らにはそれぞれ六つの翼があり、二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでいて、

互いにこう呼び交わしていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる。」

その叫ぶ者の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた。



預言者イザヤは、あまりの聖さの前に自分の汚れを知り恐れました。



(イザヤ書 6章5節)

私は言った。「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。」



僕らの目は普段閉じていて、この圧倒的な聖さを見ていません。が、この聖なる国は見える形で実現し、この世界は滅ぼされます。その時に神様に神様に受け入れられる方法はただ1つしかありません。神様のレベルまで完全に赦され、きよめられることです。



(イザヤ書 6章6~7節)

すると、私のもとにセラフィムのひとりが飛んで来た。その手には、祭壇の上から火ばさみで取った、燃えさかる炭があった。

彼は、私の口にそれを触れさせて言った。「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された。」



燃える炭火がイザヤの罪を赦し完全にきよめました。この炭火による赦しときよめはイエス様の十字架による赦しときよめを表しています。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(1ヨハネ1.7)イエス様を通してでなければ、誰も神様のところに行くことはできません。(ヨハネ14.6)エス様は僕らの身代わりに罪を負い、呪われ滅ぼされる側になって僕らをきよめてくださいました。神様の聖さの前で救われる方法はイエス様の十字架の犠牲の他にはありません。



(使徒の働き 4章12節)

この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」



キリスト教を学校の勉強みたいに「いい点とればいいんでしょ」と思っているなら大変な誤解です。神様の聖さや正しさは人間の努力とか行いで到達するものではないし、比べあうこと自体が滑稽です。どんぐりの背比べです。教会の中に「聖書を学んでいる人が偉い人」「礼拝に出席する人がえらいひと」というランク付けがあるなら聖書の教えとは違います。もちろん聖書を学ぶことを勧めるし、礼拝出席を勧めるけど、それで偉い人になるのではありません。神様に近づくことは、自分の罪深さを知ることです。そして、イエス様の十字架の処刑にすがりイエス様の赦しに感謝することです。


「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。」(5)と自覚してる人こそ救われます。心貧しい人こそ救われます。(マタイ5.3)イエス様が代わりに苦しみ十字架で死んでくださり、罪は赦された、と宣言してくださっています。この方以外には、だれによっても救いはありません。

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