2024年11月21日木曜日

イザヤ50章

 イザヤ50章


他人から侮辱されたりさばかれたり攻撃されたりすることがあります。その原因は僕らにあったりします。でも、神様は何度も僕らのことを「義」(無罪)だと宣言してくださっています。



(ローマ人への手紙 8章1節)

"こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。"



だから僕らは恐れずに侮辱する人に向き合うことができます。もちろん罪は認めましょう。ご指摘のとおりです。でも、イエス様が十字架でその罪を背負い、神の裁きを受けてくださり、僕らは無罪とされました。だから言い訳したり言い返したり逃げたりする必要はありません。誰がなんと言おうと神様が「義」と宣言してくださっているからです。神様の前では僕らは侮辱されることも恥じることもありません。



(イザヤ書 50章7~8節)

"しかし、神である主は私を助けてくださる。それゆえ、私は侮辱されることがない。それゆえ、私は顔を火打石のようにして自分が恥を見ないことを知っている。

私を義とする方が近くにいてくださる。だれが私と争うのか。さあ、ともに立とう。だれが私をさばく者となるのか。私のところに出て来るがよい。"



火打石は一番固い石のことです。つまり、「顔を火打石のようにして」とは、周りの人が何と言おうと、固く神様のことばに立つことです。神様が無罪宣言をし恥を取り去ってくれた、この福音に固く立ち、ブレないことです。反論も仕返しも逃げも必要もありません。「私を義とする方が近くにいてくださる」からです。(8)神様は僕らに義としてくださる福音をいつも聞かせてくださっています。「神である主は私の耳を開いてくださった。私は逆らわず、うしろに退きもせず、打つ者に背中を任せ、ひげを抜く者に頬を任せ、侮辱されても、唾をかけられても、顔を隠さなかった。」(5-6)

むしろ、僕らを責め、攻撃する人は神様から裁かれてしまいます。神様を敵に回してしまうからです。



(イザヤ書 50章9節)

"見よ。神である主が私を助けてくださる。だれが私を不義に定めるのか。見よ。彼らはみな衣のように古び、シミが彼らを食い尽くす。"



誰よりも「打つ者に背中を任せ、ひげを抜く者に頬を任せ、侮辱されても、唾をかけられても、顔を隠さなかった。」(5-6)のはイエス様です。鞭で打たれ、唾をかけられ、それでも逃げずにその苦しみを受け忍耐されました。これが僕らのお手本です。

今日も僕らを義としてくださるイエス様が一緒にいてくださいます。十字架の苦しみをなし終えてくださったイエス様が一緒です。十字架を見上げましょう。空になったお墓を思い出しましょう。感謝しましょう。義と宣言されています。大丈夫です。それでも苦しめられるなら喜びましょう。イエス様に繋がっている証拠です。ハレルヤ!



(ペテロの手紙 第一 4章13~14節)

"むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。

もしキリストの名のためにののしられるなら、あなたがたは幸いです。栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。"





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