2025年4月15日火曜日

ルカ22.24-30 へり下ることと、その先の栄光 礼拝メッセージ

 ルカ22.24-30 へり下ることと、その先の栄光


●もっと大きな栄光のために


若い人は異性を見ると「この人と一緒になったら幸せになれるかな」って一瞬で妄想するって聞きました。これは仕事を選ぶ時も住む場所を選ぶときも同じです。学校を選ぶ時もそうです。

この会社だったらいい思いできるかどうか、この家に住むのはどうか、僕らは決断や選択を何度もするわけですけど、その決断や想像はいつも自分がいい思いするかしないか、です。


イエス様は本当にいい思いをさせてくださる方です。僕らが想像するよりずっと幸せな将来を与えてくださる方です。イエス様の基準は明白です。それはこの世では苦しみがありますが、あなた方は忍耐しなさい、仕える側になりなさい、です。その先に僕らが思う以上の祝福と幸せが約束されているからです。


(29-30)

わたしの父がわたしに王権を委ねてくださったように、わたしもあなたがたに王権を委ねます。

そうしてあなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食べたり飲んだりし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めるのです。


皆さんが子どもの頃、「勉強しなさい」と言われたでしょうか。内申が良くなって良い高校行けるよって言われませんでしたか?僕は中学生の時、吹奏楽部で練習しなさい、と言われ続けました。とにかくつまらないロングトーン、とにかく基礎練習の繰り返しです。でも、先生から「これを続けると必ず金賞取れるから」と言われてやり続けました。そしたら本当に金賞が取れました。嬉しかったです。


だったらなおのこと、神様は本当に永遠の祝福を与えてくれようとしています。なくならない永遠の富と栄光です。今、この世の人から「なんでそんなことするの?」「なんでそんなつまんないことするの?」「クリスチャンってなんでそんなことに時間かけるの」と言われるかもしれません。でもイエス様は本当の祝福と喜びのために、今すべきことを教えてくれています。


(25-26)

すると、イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々に対し権威を持つ者は守護者と呼ばれています。

しかし、あなたがたは、そうであってはいけません。あなたがたの間で一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい。上に立つ人は、給仕する者のようになりなさい。


ただ、へり下りなさい、と言っているのではなくて、その先にとんでもない復活と栄光があるからです。

人のしもべになさい。今、忍耐しなさい。今、自分より相手が優れていると思いなさい。あなたがお仕えしなさい。あなたが下に立ちなさい。です。


(27-28)

食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょうか。食卓に着く人ではありませんか。しかし、わたしはあなたがたの間で、給仕する者のようにしています。

あなたがたは、わたしの様々な試練の時に、一緒に踏みとどまってくれた人たちです。


イエス様のために、イエス様と一緒にへりくだり、相手を赦し、給仕する人のように、人の嫌がることをあなたがやりなさい、と言われています。理由は必ず祝福があるからです。その先に神様と一緒に世界を治めるという栄光があるからです。


良い学校に入るレベルじゃないです。いい会社に入るとか給料が上がるとかいい結婚とか、そんなレベルじゃないです。神とともに王となるます。神様の似姿に変えられます。そのために今忍耐しなさい、です。その忍耐はやせ我慢じゃなくて希望と喜びに満ちた忍耐です。人のために時間を取られたり、疲れる時、希望を持って喜びましょう。神様と人のためにお金がなくなる時、不安ではなく喜びと希望を持ちましょう。低くするものは高くされるからです。


イエス様が願っているゴールはこの世で快適な安定した生活をすることではないです。むしろこの世にあっては忍耐があるし、苦しみがあるし攻撃を受けます。それは私たちの罪がそうさせているし、この世界は悪魔の支配にあるからです。でもこの世界でやり返すのではなく、上に行こうとするのではなくしもべになり、受けるのではなく与えるものになり、自分を捨てて神様にお仕えし、人にお仕えしていくなら、その先にはとんでもない祝福と栄光があります。やられてもやり返さない立場をとることが、なんと将来この世界をイエス様と一緒に治める王になることにつながります。


(29-30)

わたしの父がわたしに王権を委ねてくださったように、わたしもあなたがたに王権を委ねます。

そうしてあなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食べたり飲んだりし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めるのです。


僕らの想像を超えているけど、聖書をよく読むと、僕らは単なるしもべでなくて、イエス様と一緒に王様となる身分です。すでに今、皆さんは王子様、王女様の身分が約束されています。

神様の国と言うのは、僕らが支配者として相続するようです。例えばお父さんの会社を僕が相続して社長となり、支配する人になるニュアンスです。

イエス様と一緒に支配者になるんだから今は、イエス様がしてくださったように、へり下り、自分を捨てて、しもべのように仕える人になりなさいとイエス様はおっしゃいます。

今、自分を捨てて相手に使えることは、しぼむことのない栄光につながることです。


あなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食べたり飲んだりし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めるのです。」私たち想像つきません。でもそれが真理です。イエス様がはっきりと今日教えてくださってる将来です。


来週は教会の伝統の中ではイースターです。復活祭です。それは、イエス様が苦しみ、殺され、犠牲になって下さったけど、復活して、全ての栄光を持っておられることを感謝し記念する日です。

それは「イエス様だけすごいね」ではなくて、僕らも同じように苦しみを経験し、やがて死にますが、栄光の体に蘇ることをもう一度信じて感謝する日です。イエス様と一緒にヘリくだって自分を明け渡し、神様と人に仕えることがどんなに素晴らしい未来の栄光に繋がるか、を覚えるためです。


その前に、今週は受難週と言って、イエス様が苦しみを受け、人にも神に捨てられ、全てを手放し、捨てられたことを覚える週です。その苦しみの先に復活があります。そして、僕らは、そのキリストに習うものとなりなさい。と言われています。キリストにつながるものとなったのです。キリストとともに苦しみを受け、キリストと共にすべてを明け渡し、キリストとともに復活して全ての権威と栄光を一緒に受けることになります。


だからこの世では受けるのではなく、与えることです。攻撃するのではなく、攻撃されても忍耐することです。支配するのではなく、人にお仕えすることです。イエス様にこの心も手足も委ねて、自分を捨てることです。イエス様がそうさせてくださいます。イエス様はそのような方です。


この世のものはみんな消えていきます。

そんな中、絶対に無くならない祝福を受け継ぐ方法をイエス様は教えてくださっています。しかも、永遠に安定し、永遠に喜び、永遠に愛され、祝福される方法です。その方法は人の下に立つことです。


(26)

しかし、あなたがたは、そうであってはいけません。あなたがたの間で一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい。上に立つ人は、給仕する者のようになりなさい。


イエス様は何度も言われています。


(ルカ14.11)

だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。


●聖霊によって、イエス様によって


私たちにはできません。そんなことができるのか不安でしょうがないし、嫌でしょうがないと思います。もちろんそうです。自分にはできません。絶対にできません。でも私がやるのではなく、私の中に生きておられるイエス様がそうなさったし、今もそうさせてくださっています。


やせ我慢でなく、正直にいきましょう。私にはできないけど、私の中におられるイエス様がさせてくれます。聖霊様がさせてくれます。


僕の最近の発見は祈れない、と言うことです。葬儀があってすごく疲れました。

疲れてくると祈れないんです。疲れてくると賛美が出てこないんです。でも発見がありました。祈ってくれるのは聖霊様です。僕らを助けて祈ってくれます。僕が祈るのでなくて聖霊様が今私の中におられる霊が祈ってくださいます。イエス様が大祭司として執り成しの祈りをしてくれています。イエス様が一緒に祈ってくれます。僕の弱々しい祈りとイエス様の祈りとどっちが素晴らしいですか?イエス様が祈って下さっています。


人に仕えることも同じです。自分でやるのは疲れます。いちいち緊張します。でも、自分を明け渡すその時に聖霊はこの心と体を用いてくださいます。自分が頑張ってするのでなく、御霊が生きておられます。イエス様が僕らの中に生きておられます。用いてくださり、人のしもべとさせてくださいます。そこにはすでに平安と喜びがあります。


(26-27)

26,しかし、あなたがたは、そうであってはいけません。あなたがたの間で一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい。上に立つ人は、給仕する者のようになりなさい。

27,食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょうか。食卓に着く人ではありませんか。しかし、わたしはあなたがたの間で、給仕する者のようにしています。


この「給仕する者」の言葉「ディアコネオ」です。ここから「執事」という言葉が生まれました。

今だと「執事」は教会の役員の言葉だけど、当時は世俗的な言葉でした。宗教用語じゃなくて、「雑用係」みたいな意味です。庭掃除、ゴミ出し、食事の配膳とか、単純労働する人のことです。社会的には「低い地位」「しもべ」を表す言葉です。だから執事会はしもべ会です。執事選挙は、しもべを選ぶ選挙です。だから、みことばに従う人でないとムリです。上に行きたい人にはできないです。聖霊とみことばに委ねる人でないと無理です。


イエス様がお手本です。本当はすべての人間が讃えるべき神さまです。その神である方がそれらを全て捨てて、弟子たちの足を洗うものになりました。


神様の国とこの世は正反対です

ピリピ2章はまさにそのことを表しています


キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、

ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、

自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。

ピリピ人への手紙 2章6~11節


まず、イエス様はどうしたか?よく読むと、「ご自分を空しくして、しもべの姿をとり」とあります。

僕らが自分を明け渡し空っぽにした、ってあります。

イエス様の権威、力、栄光、そのようなものを全て手放して、空っぽにしました。

イエス様でもそうなさったのだから、僕らもまず自分の心を、欲望をプライドを手放すことが必要です。

手放すためにはプライドとかメンツとか自分が正しいとか、こうして欲しいとか、そう言うことを認めて、ちゃんと言葉にして、それを手放します、と祈ることです。


●道を間違った実例


(24-25)

また、彼らの間で、自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか、という議論も起こった。

すると、イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々に対し権威を持つ者は守護者と呼ばれています。


当時の異邦人の王様は、恩人とか守護者とか守ってくれると言われていたそうです。新共同訳は「恩人」と訳しています。「あの人のおかげ」と言われるわけです。気持ちいいですね。

「あなたのおかげ」って言われる反応がみんな好きなんです。僕も大好きです。

誰かが困ってる時に助けてあげます。そうすると本当にありがとう。あなたのおかげですって褒めてくれるんですね。恩人になれるわけです。


世俗的なこの世の王様は、人々のために何かするとよりも、実は自分のために良いことをします。自分のためにラッパを吹いているのです。


(マタイ6章2節)

ですから、施しをするとき、偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。


あなたのおかげ、と言われて、気分も良くなるし、評価も上がるし、そうやって、自分の地位を高めて偉大になりたいわけです。

でも、イエス様は26節でそれを全部否定します。「あなた方はそうであってはいけません」といいます。


●適用 本当はどちらが幸せか?


みんなこの世で成功する事、幸せになること、安定することを願います。もちろんそうです。でも、イエス様はもっと幸せにあり、成功し、安定し、祝福され、喜びのある道を教えて下さっています。この世の人たちにはほとんど見えない道です。


"狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。

いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。"

マタイの福音書 7章13~14節


なんと細い道でしょう。なんと狭い門でしょう。でも、この道は確かです。真実です。

その道を見いだすものはわずかです。イエス様はこの世界の誰も言わないこと言ってるんです。それはこの世で幸せになるんじゃなくて、この世で人に仕え、イエス様と一緒に自分を捨てていく道です。


本当の幸せ本当のゴールはこの世にはありません。この天地は滅びます。地上で宝を蓄えるのはやめなさい、上に行こうとするのはやめなさい、受けるのではなく与えるものになりなさい。人の悪を思わず、悪に忍耐しなさい、です。愛することはハッピーになる、という意味ではありません。みんな愛はハッピーというけど、イエス様の愛とは相手に仕えること、相手のために自分を捨てることです。相手のしもべになっていくことです。それが愛の定義です。その時に何が起こるか?自分を低くする人は高くされます。しかも王となりキリストとともに世界を支配します。


もし皆さんが一瞬で損得を計算できる人なら、毎日の選択がどちらが幸せかぱぱっと計算できる人なら、イエス様はもっとすごい計算を与えてくれます。それはどちらがしもべになるか、どちらが神と人を愛するか、どちらが天に宝を蓄えているか、どちらが自分を捨てて神に喜ばれているか、です。


どちらが自分を低くし、相手に仕えているか、です。その判断ができる人は失われることのない勝利者となり王となり支配者となるからです。これがこの世界では誰も言わない。狭い門であり、狭い道です。


報いと喜びは地上の人生では与えられないかもしれませんが、多くの先輩たちは、その希望を持って、地上では報いがないけど、召されていきました。


でも、この地上の生涯でも、天国の祝福を見せてくれることたくさんあります。復活の日まで待たなくても、皆さん経験してると思います。仕返ししなかったことがすごく祝福になった、お金を捧げて貯金が減ってしまったことがマイナスに見えたけど、すごい祝福になってプラスになった、とか、あぁめんどくさいやりたくないなと思ったけど、聖霊によってイエス様と一緒にお仕えしようと思った時に喜びが溢れた、とか。


人の上に立ちたい人は、人の僕になりなさい。人に仕える者になりなさい。これはハラスメントとかカルトではなくて、本当の幸せと祝福と勝利の道です。本当の栄光の道です。


元々、最初から人は神の似姿として世界を治めるように作れらています。

今は、罪があり、世界は壊れているけど、もう一度回復します。人は栄光ある姿に変えられます。そのためのステップです。そのための今すべきこと、自分を捨ててキリストと共に神様と人にお仕えしていくと言うステップです


ああして欲しい、こうして、欲しい、って思います。人が思い通りに動いてくれないと文句が出てきます。ところが、イエス様はああしてくれ、こう動いてくれ、もっとこういう態度に変えてくれ、と思うたびに、「あなたがたも同じように人にしなさい」と言います。


(マタイ7章12節)

ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。


(ルカ6章31節)

人からしてもらいたいと望むとおりに、人にしなさい。


みなさん、考えてみてください、身近な同僚にどうして欲しいですか?家族にどうして欲しいですか?親にどうして欲しいですか。ちょっと考えてみてください。

してほしい、しないで欲しい、色々あると思います。

イエス様、どうしたらいいですか?イエス様の答えは明快です。あなたが望んでいるように、あなたも同じように人にしなさい、これが律法と預言者です。

あなたが願ってることがあるなら、まずあなたの側からそうしなさい、相手のためにあなたから行動しなさい、ってことです。


がんばってそうしよう、としても疲れます。でも、あなたがしもべになりなさい、とおっしゃるのは聖霊の願い、聖霊の言葉です。だから、自分というこの体を、心を明け渡し空っぽにします。どうぞ神様この体を用いてくださいと、所有権を手放し、明け渡す時にイエス様が思う通りに用いてくださいます。


※引っ越し


引っ越しシーズンですが、引っ越しする時には、一つも自分のモノを残してはいけません。新しい住民のために、ゴミも全部なくします。カーテンも外します。もう自分のものではなくします。なるべくニオイも残さないようにします。新しい住民の思い通りのカーテンをつけ、思い通りに家具を置いて使います。

そのように、僕らのこの体を心をイエス様に明け渡します。一つも残さないで、明け渡します。これが献身です。


神の基準で偉大さ、勝利を求めるなら、その道は必ず苦しみの道を通ります。栄光への道は、自己犠牲と謙遜と苦しみの道です。


マタイの福音書の方では「あなたたちのドゥーロス(奴隷)になりなさい」とあります。ここではディアコノスよりもさらに低い言葉が使われています。この言葉は奴隷を意味します。つまり「第一になりたい者は、あなたたちの奴隷になりなさい」です。

この当時、奴隷が鞭で打たれ、殴られるのを人々は見てきたし、ひどい環境で仕えることがどういうことかを知っていたと思います。

これは互いに仕えるためにどれほど真剣であるべきかを示す生々しい例でした。そして、それが本当に偉大さを追い求めるための道です。


多くの人が栄光の道を望むけど、その痛みを避けたがります。自分たちを守るために組織や施設を作り、できるだけ快適に順調に進めようとするけど、イエス様は逆です。辛くて苦しいけど、不快だけど、そのような側になりなさい、と言います。それによって、天の御国では大きな栄光を受けるからです。


本当の栄光に至る道は、孤独な道、そして、疲れる道です。

狭い門から入りなさい、とイエス様はおっしゃいます。自分が疲れないように、自分が安心できるようにって言いすぎな時代だって思います。が、イエス様のために疲れるのは、尊い犠牲です。批判されることも痛みの一部です。非難されることがあっても自己防衛や自己弁解なしに受け入れること、これらは悲しいし辛いけど、聖書はその永遠の栄光の重さに比べれば何でもないといいます。


(ローマ8章18節)

今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。


●質問です。


1 あなたはキリストのためのどんな痛みを避けようとしていますか。

2 他の人からしてほしいことは何ですか?あなたがすべきことは何でしょう。



今周りが動いてくれて、思い通りになっても、何の価値もありません。

永遠のみ国ために、今、自分を捨てる道を、しもべの道を選択しましょう。辛くて傷つけられ、苦しいけど、イエス様のための苦しみは永遠の価値があります。


みなさんの今の苦しみは何のためですか?罪を犯して苦しむなら、価値はありません。でも、イエス様に倣ってしもべとなって、悪に対して善で返すなら、そして、忍耐するなら喜ばれています。栄光を受けます。


(1ペテロ2.20-21)

罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。

このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。


今週は受難週です。


イースターの前にイエス様は苦しみを通られました。

僕らもその苦しみと復活に僕らも招かれています。



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