2025年7月31日木曜日

2列王2章

 2列王2章


預言者エリヤはすごい人、僕らはタダの人、ではありません。あの先生は素晴らしい人、僕らはただのクリスチャンでもありません。そもそも、彼らがすごいのではなく、彼らに力を与えてくださっている神様がすごいのです。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』とある通りです。(ゼカリヤ4.6)エリヤは確かに力ある働きをしました。雨を閉ざしたり雨を降らせたり、400人のバアルの預言者と対決して、天から火を降らしたり、です。でも、それをなさったのは、神様ご自身でです。エリヤには神様の霊が与えられていました。そのエリヤが天に上げられようとした時、従者であるエリシャは求めました。求めたものは、神様がエリヤに与えてくれた霊の2倍です。



"エリヤはエリシャに言った。「あなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に求めなさい。」するとエリシャは、「では、あなたの霊のうちから、二倍の分を私のものにしてください」と言った。"

列王記 第二 2章9節



この願いは聞き届けられ、神様はエリシャに2倍の霊を与え、エリシャはすごく用いられました。聖書はエリヤよりもエリシャが行った奇跡や働きを多く記しています。そして、僕らにも彼らと同じ聖霊が与えられています。聖霊は求める人には必ず与えられます。



"ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」"

ルカの福音書 11章13節



御霊に満たされなさい。」と聖書は教えています。(エペソ6.18)その意味は満たされ続けなさい、です。イエス様の弟子たちも多くの働きをしましたが、それは御霊の現れでした。



"そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。"

コリント人への手紙 第一 2章4節



あの先生がすごい人、僕らは普通の人、ではありません。使徒たちと同じ御霊が僕らに与えられています。ますます御霊を求めましょう。必ず与えられます。二倍の霊を求めましょう。与えられ用いられます。力を得ます。求める人には与えられます。ハレルヤ!



2列王1章

 2列王1章


僕らが最初に相談し、答えを求める相手は誰でしょうか?もちろん知恵があり見識がある人に相談します。相談することは相手への尊敬でもあります。

イスラエルの王様アハズヤは落下事故で重体になった時、真っ先に偶像を求めました。「口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。」(詩篇115.5-7)そんな偶像に重要なことを相談するなんて本当にバカなことだし生きておられる神様に対して失礼です。神様は預言者エリヤを通して、その愚かさを伝えます。



"アハズヤは、サマリアにあった彼の屋上の部屋の欄干から落ちて重体に陥った。彼は使者たちを遣わし、「行って、エクロンの神、バアル・ゼブブに、私のこの病が治るかどうか伺いを立てよ」と命じた。

そのころ、主の使いがティシュベ人エリヤに告げた。「さあ、上って行って、サマリアの王の使者たちに会い、彼らにこう言え。『あなたがたがエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに行くのは、イスラエルに神がいないためか。

それゆえ、主はこう言われる。あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」そこでエリヤは出て行った。"

列王記 第二 1章2~4節



神様だけが生きて働かれる神様です。アハズヤはしゃべれもしない偶像に相談したことを恥じるべきでした。偶像礼拝に対して神様が怒っておられることは、王様の部下たちが焼き殺されたことで証明されます。



"エリヤはその五十人隊の長に答えて言った。「私が神の人であるなら、天から火が下って来て、あなたとあなたの部下五十人を焼き尽くすだろう。」すると、天から火が下って来て、彼とその部下五十人を焼き尽くした。"

列王記 第二 1章10節



神様だけが生きて働かれ、答えてくださることは明白でした。天から火が降り、王様の家来が殺されることが2回も繰り返して行われました。…にもかかわらずアハズヤは偶像に伺いを立てることをやめません。彼は神様のことばの通りに殺されます。



"主の使いがエリヤに「彼と一緒に下って行け。彼を恐れてはならない」と言ったので、エリヤは立って、彼と一緒に王のところに下って行き、

王に言った。「主はこう言われる。『あなたが使者たちをエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに遣わしたのは、イスラエルにみことばを伺う神がいないためか。それゆえ、あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」

王は、エリヤが告げた主のことばのとおりに死んだ。"

列王記 第二 1章15~17節



僕らにも問われています。僕らが最初に相談し、答えを求める相手は誰でしょうか?ネットの情報でしょうか。まず、質問する相手は生きておられる神様です。求めて質問するなら必ず答えは与えられます。



(ヤコブ1.5)

あなたがたのうちに、知恵に欠けている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。


救いはこの方以外にはありません。(使徒4.12)「求めなさい。そうすれば与えられます。」(マタイ7.7)まず主に伺い、求めましょう。


神様に相談し、求めることは愛と尊敬と信頼を表すことです。イエス様には知恵と知識の宝が全てあります。(コロサイ2.2-3)本当の答えを得る道は、大学教授とか、SNSとかAiに求めるのではなく、イエス様と繋がり、イエス様に求めることです。全ての答えはイエス様にあります。ハレルヤ!




2025年7月29日火曜日

ホセア14章

 ホセア14章


「どうしてこんな苦しみが…」と思う時、神様を悲しませ、神様の妬みや怒りを引き起こすようなことがなかったか、自分に聞いてみるのは大切です。もし罪に気がついたらちゃんと言葉にして言い表すことです。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(1ヨハネ1.9)



"イスラエルよ。あなたの神、主に立ち返れ。あなたは自分の不義につまずいたのだ。

あなたがたはことばを用意し、主に立ち返れ。主に言え。「すべての不義を赦し、良きものを受け入れてください。私たちは唇の果実をささげます。"

ホセア書 14章1~2節



罪を告白するなら赦されるだけでなく、癒しと回復も与えられます。



"ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。"

ヤコブの手紙 5章16節



イスラエルが苦しみ滅んだ理由は、神様よりも軍事力、神様よりも強国の助け、神様よりも偶像、神様より自分で作ったものを求めたからです。それをちゃんと認めてそれを「やめます」と告白する時に、イスラエルは癒され、回復し、祝福されました。



"アッシリアは私たちを救えません。私たちはもう馬に乗らず、自分たちの手で造った物に『私たちの神』と言いません。みなしごがあわれまれるのは、あなたによってです。」"

ホセア書 14章3節


罪を「捨てます。やめます」とちゃんと口にすると、驚くような癒しと回復と祝福もたらします。神様がそうおっしゃいます。



"「わたしは彼らの背信を癒やし、喜びをもって彼らを愛する。わたしの怒りが彼らから離れ去ったからだ。

わたしはイスラエルにとって露のようになる。彼はゆりのように花咲き、レバノン杉のように根を張る。

その若枝は伸び、その輝きはオリーブの木のように、その香りはレバノン杉のようになる。

その陰に住むものたちは、穀物のように生き返り、ぶどうの木のように芽をふく。その名声はレバノンのぶどう酒のようになる。

エフライムよ。わたしと偶像との間に、どういう関わりがあるか。わたしが応え、わたしが世話をする。わたしは緑のもみの木のようだ。わたしから、あなたは実を得るのだ。」"

ホセア書 14章4~8節



他のものに頼ったり自分に頼ったりしても、結果はマイナス、いや悲惨です。罪を認めて悔い改め告白するならば祝福は思ったよりもずっと大きく、30倍60倍100倍の回復と祝福があります。神様に喜ばれるものは悔いた心です。



"神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑まれません。"

詩篇 51篇17節



罪を告白し、神様に感謝することを「唇の果実」(2)と言います。自分が他のものを求めていたこと、他のものを優先していたこと、ちゃんと口に出して謝りましょう。神様はすべてを新しくし、回復し、祝福で満たしてくださいます。ハレルヤ!



ホセア13章

 ホセア13章


「時間がない、お金がない、敵がいる」イヤだけど、そんな時にこそ、神様のリアルな守りや愛、恵みを本気で祈り求め体験できます。逆に、時間もお金もたっぷりあって平和になると神様に求めたり感謝したりしなくなりがちです。お金も平和も神様が与えてくださってるのに、です。イエス様は「貧しむ者、悲しむ者、飢える者、迫害される者は幸い」とおっしゃいます。(マタイ5章、ルカ6章)貧しく苦しむ時こそ本気でひざまずいて祈り求めることができるし、助けられた時に100パーセント神様に感謝できるからです。イスラエルは400年も奴隷とされ、まさに苦しむ者、悲しむ者でした。彼らはただ神様に求め、救い出され、何もない荒野で養われました。



(4-5節)

しかしわたしは、エジプトの地にいたときから、あなたの神、主である。あなたはわたしのほかに神を知らない。わたしのほかに救う者はいない。

このわたしは荒野で、干ばつの地であなたを知っていた。



イスラエルが通ってきた荒野はいつも死と隣り合わせの危険地帯でした。危険だからこそ、神様の助けが明白でした。やがて神様は乳と蜜の流れる地で満腹させてくださいます。満足した時こそ本当に危険な時です。神様を忘れて傲慢になりやすいからです。



"あなたが食べて満ち足りたとき、主がお与えくださった良い地について、あなたの神、主をほめたたえなければならない。

気をつけなさい。私が今日あなたに命じる、主の命令と主の定めと主の掟を守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。

あなたが食べて満ち足り、立派な家を建てて住み、

あなたの牛や羊の群れが増え、銀や金が増し、あなたの所有物がみな豊かになって、

あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れることがないように。(…中略…)

あなたは心のうちで、「私の力、私の手の力がこの富を築き上げたのだ」と言わないように気をつけなさい。"

申命記 8章10~17節



ですが、イスラエルの民は警告されていた通りに神様を忘れ、高ぶり、裏切ります。



(6節)

しかし牧草で満腹したとき、彼らは満ち足り、心は高ぶり、そうしてわたしを忘れた。



「神様?あ~もういいや」みたいに思ったようです。「ウチらに満足や喜びをもたらすのはコレだ!」と偶像を作り出し、「コレのおかけで繁栄している」と誉めたたえます。とんでもない間違いです。



(2節)

今、彼らは罪を重ね、自分のために銀で鋳物の像を造り、自分の考えで偶像を造った。これはみな、職人のわざ。彼らはこれについて言う。『人を献げる者たちは、子牛に口づけせよ』と。



聖書は「主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」と言います。(詩篇103.2)神様を忘れ、神様を裏切ることは全ての祝福を自分から捨てるようなものです。神様を捨てるときに、与えてくださった良いものも全部手放すことになります。どんな王様も助けてくれません。残るのは神様の怒りと裁きだけです。



(7-11節)

7,わたしは彼らに対して獅子のようになり、豹のように道端で待ち伏せる。

8,子を奪われた雌熊のように彼らに襲いかかり、彼らの胸をかき裂いて、その場で雌獅子のように食らう。野の獣は彼らを引き裂く。

9,イスラエルよ、あなたは滅ぼされる。あなたの助け手である、わたしに背いたからだ。

10,では、あなたの王はどこにいるのか。すべての町のうちで、あなたを救う者は。あなたをさばく者たちはどこにいるのか。かつてあなたが『私に王と高官たちを与えよ』と言った者たちは。

11,わたしは、怒ってあなたに王を与え、また憤ってこれを奪い取る。



(15-16)

15,彼は兄弟たちの中で栄えている。だが、東風が吹いて来て、主の息が荒野から立ち上り、水源は涸れ、泉は干上がる。それはすべての尊い器がある宝物倉を略奪する。

16,サマリアは咎ある者となる。自分の神に逆らったからだ。彼らは剣に倒れ、幼子たちは八つ裂きにされ、妊婦たちは切り裂かれる。」



「偶像を造ってはならない。」という律法を守れないのが人間です。(出エジプト20.4)律法は神様の怒りをもたらします。律法を守ったら救われるのではなく、律法はそれを守れない「私たちをキリストへ導くための私たちの養育係」です。(ガラテヤ5.24)「よーし頑張ろう!」と思っても長続きしません。僕らは弱いものです。本当の救いが必要です。


イスラエルは神の怒りで多くの人が殺されました。今日のホセア13章は恐ろしい神様の怒りの章です。しかし、それでも神様は救おうとしてくださっています。イエス様は神様の怒りを受けて殺される側に来てくださいました。罪はないのに、まるで神様を裏切り殺される者のように、十字架で神様の呪いを受け、殺され、葬られました。死は罪の結果です。



(14節)

わたしはよみの力から彼らを贖い出し、死から彼らを贖う。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。よみよ、おまえの針はどこにあるのか。あわれみはわたしの目から隠されている。



イエス様を信じた僕らも一度は死ななければなりません。…ですが、イエス様は復活されました。そして、イエス様を信じる僕らも同じように復活します。


新約聖書はこの恐ろしい箇所を解説してくれています。イエス様が僕らを憐れみ、見離さず、イエス様と一緒に復活させてくださり、罪も汚れもない完全な体に変えてくれます。



"そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に吞み込まれた。」

「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」"

コリント人への手紙 第一 15章54~55節



神様の怒りと裁きはあります。ホセア書に描かれた神様の怒りは僕らが受けるべき裁きです。僕らには救いが必要です。クリスチャンになってもなお高ぶって悪いことをしまう僕らがいます。パウロ先生でさえそうでした。



(ローマ7.18-19)

私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。

私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。



僕らの救いはイエス様だけです。イエス様だけが代価を払って僕らを取り戻してくださった方です。「わたしはよみの力から彼らを贖い出し、死から彼らを贖う。」(14)とおっしゃるのは、イエス様の救いの預言です。イエス様以外に救いはありません。ただ感謝しましょう。



(ローマ7.24-8.1)

私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。(…中略…)こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。