2026年5月4日月曜日

詩篇100篇 主に向かって喜びの声をあげよ メッセージ

 

詩篇100篇 主に向かって喜びの声をあげよ 


神様を信じてはいるけど「喜びがない」という話を聞くことがあります。

礼拝に出席しますけど、賛美を歌っていても、心は渇いている、とか、口は動いているけど、心は暗くて、ここにいるだけで精一杯、という日もあると思います。それが現実です。

僕も「いつも喜んで賛美してるね」って言われるけど、讃美できない日、神様が遠く感じる日、喜べない日もあります。


今日のメッセージはそんな僕らに神様が喜びを与え、「感謝して主の前に出るように」という呼びかけです。心配事があっても、それは一旦脇において、「神様の前に来るように」しかも「感謝と喜びを持って近づくように」です。


主のことばには命があります。

神様がおっしゃるとそれは現実になります。

主の言葉によって命が吹き込まれます。

神様のことばで、僕らは新しくされます。

今僕らが集まってるのは、神様の前です。

聖霊が注がれると与えられるのは愛と喜びです。

神様が今日、この聖書のことばによって皆さんが愛と喜びと感謝で満たされていることを願いつつ、祈りつつ、信じつつお話しします。


●喜び叫べ


(1)全地よ主に向かって喜びの声をあげよ。


1節は「喜びの叫びをあげよ」って翻訳も多いです。

歌のジャンルとか内容は何も言っていないです。伝統的でクラシカルな讃美歌がいいのか、今風なワーシップソングがいいのか、マイクを使うかどうか、聖書は言っていないです。はっきり言っているのは2節「喜び歌いつつ御前に来たれ。」です。歌が上手いか下手か、どんな伴奏か関係ないです。

神様が願っておられるのは喜びの叫び声です。向かうところは神様の前です。「御前に来たれ。」です。神様の前に「喜び叫び、歌いながら来なさい」という呼びかけです。


(2)喜び歌いつつ御前に来たれ。


「まぁ、心の内で静かに神様を愛していればいいでしょう」という人もいるかもしれません。「あの人みたいに大声で歌えないし、静かに礼拝したい」っていう人もいるかもしれません。

「大声出さなくても私は神様を十分喜んでいます」と言う人がいるかもしれません。

皆さんはどうでしょう。


人によって表現の仕方が違うし、国によっても、教会によっても喜びの表現は違います。

日本の教会は多分おとなしい文化だと思います。岳ちゃんが行っていたアフリカの礼拝のビデオ見たら、最初から踊ってました。

周りの空気を読むとか、相手に迷惑をかけないとか、そういう日本独自の暗黙の教えがあるので、日本では直接的な表現を避けがちだし、あまり叫んで表現しない文化だと思います。

でも神様は「声をあげよ」って呼びかけています。1節はいろんな翻訳があります。


新共同訳「喜びの叫びをあげよ。」

フランシスコ会訳「歓呼の声をあげよ。」

NIV「Shout for joy to the LORD」


原文でも「叫べ」という言葉でした。


神様が与えてくれた声を使って「叫んで、喜びを表現しなさい」です。「礼拝がうるさい」って人もいると思うけど、問題は、うるさいかどうかじゃなくて、内側に喜びがあるかどうか、です。心から喜びや感謝が湧き出ているかどうか、です。本当に喜びがある時、例えばワールドカップのサッカーの試合で日本がゴールを決めた時は「わーっ」て叫びます。その時に周りに配慮しよう、とは思いません。それは全員が同じく内側から喜んでいるからです。

皆さんの心は最近どうでしょう。


天国の礼拝はどうだと思いますか?誰も天に登った人はいないけど、聖書にその様子が書かれています。


"互いにこう呼び交わしていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる。」

その叫ぶ者の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた。"

イザヤ書 6章3~4節


セラフィムが叫んでいたといいます。しかもそのために敷居の基、建物の土台が揺れた、とあります。叫び声のために土台が揺れる、って相当です。


いつも東栄教会の礼拝の最後に歌っている歌「屠られた子羊」ですが、あの歌詞も天の礼拝の様子を見せられたヨハネが記録しています。黙示録に書かれています。その時も大声で歌っていたとあります。


(黙示録5章11-12節)

また私は見た。そして御座と生き物と長老たちの周りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の数万倍、千の数千倍であった。

彼らは大声で言った。「屠られた子羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です。」


天国では喜びの声をあげています。その人数は数え切れません。

詩篇100篇は天国の礼拝への招きです。天の礼拝と地上の礼拝が一つになるように、って神様の側からの呼びかけです。


(1-2)

全地よ主に向かって喜びの声をあげよ。

喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。


天では喜びと賛美が満ちています。

そして御霊は、地上いる僕らにもその喜びを与えてくださいます。御霊の実は愛と喜びです。神様は喜び歌いながら神様の前に来なさいって呼びかけてくださっています。


※アイドルのライブ

皆さん、アイドルのライブに行ったことがありますか?

僕はあまりないですが、一度だけずっと昔、郷ひろみのライブに言ったことがあります。

本人がステージに登場した時は、やはり会場全部が「きゃーっ」てなりました。

喜びの叫びです。大好きな芸能人がステージに登場した時、みんなが手を振って叫びます。

最近は嵐のラストライブがありましたが、その時も同じだったと思います。

芸能人でもそうなら、神様とお会いする時はもっとすごい喜びです。


●「主に」向かう喜び


主に向かって」です。人に聞かせるのではないです。人に認めてもらうための歌ではないです。自己アピールのためでもないです。問題を忘れるための音楽ではないし、陶酔するためでもないです。今言ったのは全部自分のためです。聖書は「主に向かって」喜び叫べ、「主に向かって」歌え、です。「主の前に」来なさい、です。僕らの讃美の歌を聞いてくれる人は実はただ一人です。お客さんは神様だけです。


ここがステージ、皆さんが客席ではなくて、皆さんがステージ、客席にいるのは一人、神様だけです。これが礼拝、これが讃美です。だから、礼拝は受けるのではなく、神様にささげるものです。


会衆席で歌うみなさん。映像をイメージしてください。栄光の神様が天の御座に座っておられるます。周りには数えきれない天の軍勢が取り囲んで一緒に歌っています。歌う相手はただ一人神様だけです。主に向かってです。喜んで聞いてくださるのは神様です。その大軍勢の一人としてその大合唱に参加するのが自分です。


(1)

全地よ主に向かって喜びの声をあげよ。


しかもよく読むと「全地よ」です。人間だけではなく、自然界も全部です。花も雲も月も太陽も主に向かって喜びの声をあげよ、です。太陽は光を照らしながら、「俺はすごいだろう」と言っているのではありません。「太陽を造った神さまはすばらしい。」と神様の栄光をたたえています。造られた自然界は神さまの栄光を表しています。


(詩篇19篇1節)

天は神の栄光を語り告げ大空は御手のわざを告げ知らせる。


雲を見る時、神様を意識すると僕らの心は明るくなります。綺麗だな、だけでなく、神様はすごいなと思わせてくれます。桜を見るときもそうです。綺麗だな、この桜、花びら一枚一枚を丁寧に作られた神様は素晴らしいな、って主の栄光をたたえています。

雪を降らせ、雪を溶かし、枯れた大地を緑に変えるのは神様です。

みんな主に向かっています。「全地よ主に向かって」です。


最初に言いましたが、歌っても心が暗い、喜びがない、ということが実際にあります。僕もあります。

自然の美しさを見ても喜びを感じない時もあります。どうして喜びがなくなるのか、その原因は心が主に向かっていないからです。

主に心が向かう時には喜びがあります。そして神様以外に心が向くと喜びは消えていきます。


(2)

喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ


喜ぶことは主に仕えることとセットです。この「仕えよ」はしもべとして仕える、という意味があります。

賛美集会のときには張り切って叫んで歌うけど、けど、普段は自分のやりたいこと優先で、神様が後回し、ということがあると思います。教会の奉仕も「色々面倒だし人間関係疲れるからやりたくない」って人もいるかもしれません。心が神様でなく人に向くときに喜びは消えていき、作業内容に心が向くときに喜びは消えていきます。


「喜びをもって主に仕えよ。」


悪い例が聖書にあります。

有名なマリヤとマルタの話です。

この話はイエス様のための奉仕だったけどいつの間にか心がイエス様以外に向いてしまってイライラした、という話です。


マルタはいつの間にかもてなしのため、自分のためになってしまいました。そうすると喜びはなくなり、心は渇き、文句が出てきます。


"ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」"

ルカの福音書 10章40節


イエス様はいいます


"主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。


「いろいろなもてなしのために心が落ち着かず」、例えば、食事の用意がまだできてないこと。今日泊まるのは何人か確定してないこと。あそこの掃除もまだ終わってなくて気になること。いろんなことが気になっていました。一番気になるのは、あの妹が手伝わないことです。彼女は満たされず、イライラして、怒ります。


マルタの心は自分がやりたいあのこと、やらなきゃならないあのこと、このことで一杯になっていました。心がどこに向くかで、喜びになるか不満になるかが決まります。

イエス様のため、と最初は思っていたけど、今はいろんなことが気になっています。一番気になるのは手伝わない妹のことです。そして喜びを失ってしまっています。


行くべきは神様の前です。やらなきゃならないいろんな用事の前に行くのでなく、主の前です。主の前のことを「御前」と言います。


2,喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ


教会の奉仕だけでなく平日の仕事もそう。神様に仕えます。人に仕えるけど、それは神様に仕えています。家庭生活もそうです。相手に仕えるのでなく、相手を与えてくださった神様に仕えます。

喜びがないのは、神様でなく状況ばかり見て、人を見て、問題ばかり見ているからです。

僕らは人に喜んでもらうのでなく、神様に喜んでもらうために仕えています。


今度5/30にシードワーシップがあります。

僕も今シードワーシップのアレンジとか手伝っていますが、自分が喜んでやってるか、喜びを失ってるかすぐわかります。そして、喜びがなくなる理由もわかっています。


それは、神様に喜んでもらおうとして仕えているか、作業や人ばかり気にして仕えているか、です。

「ああ、コード書かなきゃ」とか、「あの人間違った」とか、音程がどうとか、アレンジがどうとかばかり気にしていると、もう神様の前ではないです。音楽に仕えると喜びがないです。人に仕えても喜びがないです。でも、神様に仕える時に喜びがあります。コードを書くとき、楽器のパートを考える時、神様に仕え、神様に喜んでもらおうとするなら喜びがあります。


どんな準備も日常の仕事も神様の前です。神様にしもべとして仕えています。


(コロサイ3.23)

何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。


もちろん職場でも家庭でも大変なことはあります。課題はあります。でも、僕らはその問題を通して、神様に仕えています。問題をわざわざ置いてくださったのは神様です。問題は祈って神様の前に行くためにあります。問題があるからイエス様と一緒に人を赦すこと、忍耐することを学んでいきます。僕らは問題の中で神様に仕えています。


喜びとは単にテンション高い状態じゃないし、問題ゼロの状態でもないです。喜びは神がここにいてくれることです。この問題の中にも神様がいてくれて、その神様を見上げることです。


皆さんの喜びは今どんな状態でしょうか。皆さんの意識はどこに向いているでしょうか

僕らの心がどこに向くか、意識がどこに向くかで喜びになるか、不満になるか変わります。


(2)

喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。


※あるメッセージで聞いたんだけど、40年間ビルの掃除だけをしている高齢の女性にインタビューしたそうです


一見すると、すごく単純でつまらないお掃除に見えるそうです。「どうしてあなたは40年間もこの仕事を喜んで続けられるのか」インタビューしたそうです。するとその女性は「私は少しも退屈ではない」「私がやってる事はお掃除ではなくて神様にお仕えすることです」「神様が愛しているこの人たちの場所をきれいにすることは、神様への奉仕です」「私が使っているこの道具は、神様から与えられた賜物です。モップは神の手です」と言ったそうです。その人には喜びがありました。彼女の清掃の仕事はもはや神様に喜ばれる礼拝でした。神様の喜びは彼女の喜びでした。


日々の仕事をすることは、人に仕えるように見えて、実は神様に仕えることです。そこには喜びがあります。


●主権を明け渡す喜び


(3)

知れ。主こそ神。主が私たちを造られた。私たちは主のもの 主の民 その牧場の羊。


僕も皆さんも神様ではないし、支配者ではありません。自分も周りもコントロールすることはできません。


「私たちは主のもの主の民その牧場の羊」です。

羊は自分で道を切り開くことはできません。

神様の牧場の羊です。牧場の羊は羊飼いの声についていくだけ。自分で水のあるところに行けないそうです。羊は弱い動物の代名詞のようです。

何も武器を持たず、判断力は弱く、目も弱いそうです。


ただ、羊飼いの声を聞くことができて、その声に安心して従う、それが羊です。

自分で問題を解決しようとか、この群れを支配しようというのは、羊には無理です。羊は怖がりです。羊にとっていちばんの安心と喜びは羊飼いの声が聞こえることです。それだけで安心します。


(3)

知れ、主こそ神。主が私たちを作られた。私たちは主のもの主の民その牧場の羊。


喜びとは自分で力を持つことではなくて、力と愛に満ちた神様と一緒にいることです。

逆に自分の力で自分の判断で乗り越えよう、と思うと緊張するし、焦るし、疲れます。そこに喜びはありません。


ここで皆さんに質問です。五段階評価をつけてみてください。


思い通りにいかないとイラつく 

予定が狂うと不機嫌 

人が期待通り動かないとイラつく 


これ全部同じような内容です。全部「自分が支配したい」という現れです。

僕も全部「思い通りにした、予定通りにしたい」と思います。でもそうはなりません。

「思い通りになれ、期待通り進め」と握りしめるほどに喜びも平安も消えていきます。


力がないのにまるで力があるかのように振る舞って、

エナジードリンク飲んでテンション上げようとか、翼が与えられた気がするのは、神様からのものではありません。僕もコーヒーとか紅茶を飲んで、カフェインとってメッセージの準備しよう、って思う時がありますが、でも、メッセージは神様が与えてくださるもので、人が作り出すものではないです。AIで作るものでもないです。喜びも賛美もメッセージも神様から与えられるものです。


(3)

知れ。主こそ神。主が私たちを造られた。私たちは主のもの主の民その牧場の羊。


自分でコントロールしなくていいです。自分で作り出さなくてもいいです。主導権を手放しましょう。

思い通りにならなくていいです、「神様の思い通りにしてください」と祈る時、喜びと平安が回復します。


それが主の祈りです。

「御心が天で行われるように、地でも行われますように。」

神様の心がなりますように。僕の心が計画が、ではなく、神様の心がなりますように。

逆にいうと、「僕の思い通りになりませんように」と祈ることです。

この体も心も意志も知性も計画も全部神様の所有です。「主権を手放します。使ってください」って開け渡すことです。ここに喜びがあります。全て手放しても何も失いません。むしろ、ほっとします。愛と力に満ちた神様が一緒にいてくださるからです。


僕らの体は主の体。心は主の心。この知性や預かってる能力は主のものです。主権を神様にお返しすると、喜びが回復します。本来あるべき姿に戻るからです。


●喜びの理由=神様の愛が永遠だから


神殿のあった時代、主の門があって、神殿の前に大庭があって、そこに入るときにレビ人たちが呼びかけます。


(4)感謝しつつ主の門に 賛美しつつその大庭に入れ。主に感謝し御名をほめたたえよ。


感謝しつつ、主の門に入りなさい、

讃美しつつ大庭に入りなさい。


当時、神殿は主の家でした。主をお会いする場所です。

同じように、僕らは主とお会いします。今はこの体が、主の家です。そして、二人でも三人でも集まるところにイエス様はいてくださいます。


神の臨在に入るとき、まず「感謝」を持って門を通ります。

つまり神がしてくれたことに対して感謝することは僕らを神様に近づけます。


パウロとシラス(使徒の働き 16章)は牢に入れられ、手足を鎖でつながれても、
二人は夜中に「賛美して祈ってた」。牢屋にいても、そこが神様の家でした。つまり、感謝があり賛美があるところは、牢屋であっても神様の家です。感謝と賛美と喜びがそこにあります。

ご馳走がなくても、かわいたパン一枚でも、そこに平安と喜びがあるなら、神様の家です。逆に、どんなにご馳走があっても、感謝や賛美や愛がなければ虚しいものです。


主の家に入ることは、感謝から始まります。小さいことでいいので、ぜひ、昨日の一日の全部のことを思い出してください。


起きれたこと。服があったこと。歩けたこと。息ができたこと。食べ物があったこと。寒くなかったこと。僕のルーティンは朝、主の祈りをすることですが、御名が崇められますように、聖なるものとされますように、って祈る時は、昨日の全部ことを感謝するようにしています。どんな小さなことでも感謝することです。


「あの人のライン、神様が与えてくださいました」って祈る時に、ただのラインが連絡でなくて、感謝と喜びのラインになります。「よく眠れました」って祈る時に、睡眠が神様への感謝と喜びになります。

気温が上がり、太陽が綺麗なこと、緑が美しいこと、全部神様の栄光です。


(1テサロニケ5章18節)

すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。


詩篇100篇は感謝の讃歌です。表題にそう書いてあります。

感謝と賛美は神様が喜んでくださるささげものです。


(4)

感謝しつつ主の門に 賛美しつつその大庭に入れ。

 主に感謝し御名をほめたたえよ。


さらに、讃美の理由、感謝の理由、喜びの理由が続きます。


(5)主はいつくしみ深く その恵みはとこしえまで その真実は代々に至る。


「恵み」って愛のことです。なくなることのない愛です。

今日もこれからも神様の愛によって僕らは裁かれず、赦され、守られ祝福され続けます。

永遠にです。この恵みと真実がローマ8章の後半で詳しく書かれています。

次の(  )は全部「私たち」という言葉です。ここに自分の名前を入れてみてください。

これがなくなることのない真実です。


ローマ8.31-35

神が(   )の味方であるなら、だれが(   )に敵対できるでしょう。

(   )のために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、(   )に恵んでくださらないことがあるでしょうか。

だれが、神に選ばれた(   )を訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。

だれが、(   )を罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも(   )のために、とりなしていてくださるのです。

だれが、(   )をキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。


この真実は永遠になくなることはありません。


(5)

主はいつくしみ深く その恵みはとこしえまで その真実は代々に至る。


だから感謝しつつ、神様に近づきましょう。賛美しつつ仕えましょう。

神様の愛から離すものは何もありません。

これが真実です。喜んで、感謝して歌いましょう。


この恵みと愛を忘れないため、思い出すために、イエス様はパンを割いて分け合い、盃を分け合ってイエス様の赦しと愛の約束を思い出しなさい、っておっしゃっています。

聖餐をしましょう。



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