使徒9.1-21
●教会への憎しみはイエス様への憎しみ
「教会の人たちへの態度=イエス様への態度」
これは聖書全体で繰り返し言われていることです。もちろん、教会の中にある間違いを指摘したり互いに戒めたりするのを否定しているのではありません。でも、教会を憎み傷つけることは、キリストの体を傷つけることにつながります。
サウロが嫌っていたのは教会の人たちです。憎み、殺意に満ちて引きずり出し殺そうとしていました。
ところが、イエス様は2回も「なぜわたしを迫害するのか」「わたしはあなたが迫害してるイエスである」とおっしゃいます。(4節、5節) イエス様につながる人たちへの攻撃はそのままイエス様への攻撃です。
"さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅かして殺害しようと息巻き、大祭司のところに行って、
ダマスコの諸会堂宛ての手紙を求めた。それは、この道の者であれば男でも女でも見つけ出し、縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。
ところが、サウロが道を進んでダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。
彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」
彼が「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。"
使徒の働き 9章1~5節
イエス様は教会の人たちへの行為をご自分への行為だと言われます。
他の聖書の箇所でもご自分に属している人への態度をご自分への態度として言われています。
"これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』"マタイの福音書 25章40節
"わたしが遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。"
ヨハネの福音書 13章20節
"あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのです。」"
ルカの福音書 10章16節
イエス様は教会を単なる仲間たちとは見ていません。「教会はキリストのからだ」です。(1コリント12.27)だから教会への憎しみはご自分への憎しみとされます。キリストのからだは一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみます。(1コリント12.26)もちろん、その苦しみはかしらであるイエス様が一緒に背負って下さいます。
僕らは教会の人の欠点を見ては「あれでもキリストの一部?」と思います。ところが僕らの評価とイエス様の考えは違います。
神様はあえて「愚かな者」「弱い者」「取るに足りない者」「見下されている者」を選ばれました。(1コリント1.26-28)弱くて足りない一人一人がイエス様にとって大切なからだの一部です。
●教会を傷つける人にさえ恵みを注がれるイエス様
クリスチャンを迫害し苦しめるサウロはその場で裁かれ滅ぼされてもおかしくありませんでした。だのに、彼は神様に選ばれ、福音を伝える器に変えられました。イエス様はサウロを敵ではなく、ご自分のものとして迎えてくださいました。
弟子アナニアはサウロを警戒し恐れていました。「主よ。私は多くの人たちから、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。
彼はここでも、あなたの名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから与えられています。」(13-14節)それでも、イエス様の願いは違いました。教会の迫害者であり敵である罪人であるサウロを選んでいました。
"しかし、主はアナニアに言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。"
使徒の働き 9章15節
数日前まで教会を憎み、イエスキリストを憎み、教会を壊滅させるためにダマスコまでやって来たサウルが、同じダマスコで「この方こそ神の子です」と伝えています。(20節)
神様が招き用いる人は「良い人、正しい人」ではなくて「罪人」です。イエス様がそうおっしゃいます。
"わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」"
ルカの福音書 5章32節
僕らもかつては神様に敵対する敵でした。そう考えると、「あの人はもうムリ。」などと簡単には切れません。神様は最悪の人を選び、悔い改めさせ、神様の器に変えることができます。イエス様はおっしゃいます。
"わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。"
マタイの福音書 5章44節
神様が用いるのは人が期待するような人ではなくて、「まさか」な人です。
僕らの判断と神様の選びはしばしば違います。
イエス様が愛しておられる教会を、弱くて欠点のある教会を僕らも愛する人に変えていただきましょう。
「ムリ」と思っていた人ために祈りましょう。
「敵」としか思えない人への愛を僕らも求めましょう。
その人は将来「わたしの選びの器」と呼ばれるかもしれません。
教会への態度はイエス様への態度とつながっています。
教会を愛し、敵を変えようとなさるイエス様の心が僕らにも与えられますように。僕らも赦されました。僕らも迎え入れられました。
敵のために祈られるイエス様の祈りが僕らの祈りとされますように。
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